説教 「共に喜ぶ」 大柴譲治

フィリピ 2:12-18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

フィリピ書連続講解説教にあたって

これまで長く福音書での説教を続けてまいりましたが、今回からは11月末までの9回、パウロ書簡のフィリピ書を用い、三ヶ月かけて連続講解説教を行います。日本基督教団などでは講解説教を40分とか1時間かけて丁寧に行う教会があると聞きますが、私たちは礼拝式文を用いた中での限られた時間ですので、厳密な意味での講解説教というよりも、講解的な主題説教というかたちになると思います。私たちの教会では三年周期のペリコーペを用いておりますので、この三ヶ月は使徒書の日課のところをフィリピ書に代えて読んでまいります。

使徒パウロの手紙はキリスト教の宣教の歴史の中で最も重要な役割を果たしてきました。新約聖書全27巻の中に13通ものパウロの名前が付された手紙が収められていることからもそれは分かります。実は新約聖書の中で最古のものがパウロの手紙なのです。最も古いものが51年頃に書かれた1テサロニケであったと考えられています。そしてフィリピ書はおそらく53-54頃にエフェソにおいて書かれています(ただしフィリピ書3章は、ローマ書と同時期の55-56年頃か)。

フィリピ書の基調音:「喜び」

このフィリピ書は獄中から書かれた手紙の一つで、「獄中書簡」と呼ばれています。「というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」という1:7の言葉も獄中からの言葉として読む時、読む者の心に強く響いてきます。

使徒言行録16章にはパウロがフィリピで伝道した様子が記されています。フィリピという町は交通の要路でした。パウロはその町でシラスと共に投獄されますが、大地震によって獄から解放されてゆくという不思議な出来事が起こるのです。そのような町に住む信徒に対して、今度はエフェソの獄中からパウロはこの手紙を送っている。そのフィリピという町は、パウロにとって二重の意味で投獄と関係する場所でありました。

この手紙は獄中書簡でありながら、その基調音は「喜び」です。フィリピ書は一貫して喜びに満ちています。それゆえ「喜びの手紙」とも呼ばれます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4:4)。従って、このキリストの喜びを掴むこと、この喜びに掴まれること、これがフィリピ書を学ぶ一番大切なことでありましょう。「キリストの福音(喜びの音信)」とは、私たちの置かれた状況がどのようなものであっても、それさえも深い喜びと平安に変えてゆくようなgood newsであるということがダイレクトに伝わってくるのが、この手紙です。

実は毎週説教の始めと終わりに語られる言葉、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」と「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。」とは、両方ともフィリピ書から取られています(もっとも最初の言葉は他のパウロ書簡の冒頭にもありますが)。前者は本日の1:2ですし、後者は4:7です。つまり、説教は「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピ書の基調音を宿しているということです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。

フィリピ書の連続説教を通して、パウロを捉えて放さなかったキリストの喜びを味わってまいりたいと思います。

「キリストの僕」

1節で、パウロは「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテ」と語り始めます。原文の語順は「パウロとテモテ、イエス・キリストの僕たち」となっています。「僕」とは「奴隷」のことで、もちろん主イエスが自分たちの「主人」なのです。パウロは自分のアイデンティティーをただ一言で、「キリスト・イエスの僕」であると語る。僕は主人の命に服従するのです。しかも喜んで服従する。信仰とはキリストへの喜びの服従です。

「僕」という言葉で想起するのはイザヤ書42章「主の僕の召命」の冒頭の言葉です。

(1)見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
(2)彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
(3)傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。
(4)暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

これは神がイエスをメシア・キリスト、すなわち「メシア」=「油注がれた者」として立て、特別な使命を与えられたことを示すイザヤの預言ですが、パウロはそのような神の忠実な僕であるキリスト・イエスの僕であるという自己理解を最初に高らかに宣言しているのです。しかもそれはパウロだけでない。パウロとテモテが共に「イエス・キリストの僕たち」(複数形)であると告げている。それはすべてのキリスト者がキリストの僕であるという宣言でもあります。私たちはキリストの僕として主の命令に従うのです。

マタイ20章には、12弟子のゼベダイの子ヤコブのヨハネの母親が「王座にお着きになる時に自分の息子の一人を右に、一人を左に座らせてください」と主イエスに願い出る場面があります。子を思う母の熱い思いが伝わってくるような気もしますが、抜け駆けした二人に対して他の10人は憤慨します。それに対して主は次のように言われるのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:25-28)。私たちの偉くなろう、強くなろう、成功しようというこの世的な価値観を打ち砕く言葉です。ヨハネ13章には主イエスが弟子たちの足を洗うという僕の務めを果たしたことが記されていますが、キリストご自身が自分の命をあの十字架の上に捧げるために僕として私たちのもとに来てくださったのと同じように、パウロは自分をキリストの僕だと言うのです。「僕の僕」としての自己理解であり、十字架を背負う覚悟の宣言です。

私はパウロの手紙を読む時にその単刀直入さに身震いすることがしばしばあります。パウロは必要なことしか言わず、無駄なことは言わない。常に事柄の一番中心を突いてくるのです。むさしのだよりの7月号の巻頭言に「メタ認知」ということを書かせていただきましたが、中心を掴むためには全体を見なければなりません。そして全体を見るためには、自分を超えたところからの視点を持たなければ全体は掴めないのです。そしてパウロは常に中心を外さずに具体的な問題に対処してゆこうとします。中心とは何か。キリストが私たちのために僕となって十字架に架かってくださったことです。ここに逆転があります。主が僕のために命を捧げてくださった!パウロはこのキリストの愛にガッチリと捕まえられています。

「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。」フィリピの信徒たちも、このむさしの教会の信徒たちも、監督や奉仕者も含めてすべてのキリスト者は、キリスト・イエスに結ばれているがゆえに「聖なる者」とされているというのです。これは大変な表現だと思います。「聖なる方」はただお一人です。「神」さま以外に聖なる方はおられない。私たちは自分を省みる時、聖なる者と言われたら恥ずかしさのあまり穴があったら入りたくなるのではないでしょうか。(余談ですが、昨年のリフォーム時に床下に抜けるための穴がいくつか設置されました。この礼拝堂の後ろにもありますが、それと同じものが牧師室にもあります。恥ずかしい時に逃げ込むシェルターが与えられたと私はひそかに思っています。)そのような私たちを、様々な弱さや破れや問題を抱えた者、「聖なる者」とはとうてい言えないような者に対して、パウロはキリストに結ばれた「聖なる者たち」と呼びかけているのです。フィリピ教会のメンバーたちも、私たち同様、このパウロの呼びかけにハッとし、身を正される思いがしたはずです。

キリストの僕であるパウロとテモテから、キリストにつながることによって「聖なる者」とされたフィリピのメンバーに挨拶が送られます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」恵みと平安がパウロとフィリピ教会をつないでいます。私たちキリスト者を強く結びつけているものは「父なる神と主イエス・キリストの恵みと平安」なのです。この恵みと平安とはどのような状況にあっても変わることがありません。たとえ獄中にあって処刑されようとも、この恵みと平安とは私たちに喜びを与え続けてくれるほど「中心的なもの」であり「根源的なもの」です。

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これは罪のゆるしのため流されるわたしの血における新しい契約」。分かたれるパンとぶどう酒を通して、私たちを救うために、神と等しい身分であることをよしとせず、僕の姿を取ってこの地上に降り立ち、十字架の死に至るまで従順に神のみ心に従われたみ子イエス・キリストのご臨在を覚えたいと思います。この聖餐式を通して、主に結ばれていることの聖なる喜び、恵みと平安とが分かち合われますようお祈りいたします。

一週間に四回の聖餐式

8/25(金)-31(木)と韓国を訪問してきました。むさしの教会からの訪問団と共に8/27(日)はソウル中央ルーテル教会で聖餐礼拝を守りました。私の行う日本語の説教を崔大凡神学生が通訳し、ハン・ヨンボク先生の司式で私も共にブドウ酒の配餐を行いました。

今日も聖餐式がありますが、実は私はこの一週間で四回の聖餐式に集ったことになります。8/28(月)と8/31(木)にカトリック教会で行われた母(金福欄)のための告別ミサと追悼ミサに参列いたしました。告別ミサには韓国訪問団のメンバーも参列してくださり、大きな慰めと励ましをいただきました。そこでは私たち自身は聖体拝礼には与ることはできませんでしたが、それは不思議な体験でした。生ける者と死せる者の双方の救い主である主の食卓には、見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っていることを感じました。言葉の壁があったとしても、そこでは主の食卓が中心でした。これは不思議な慰めと平安を与えてくれました。しかも追悼ミサでは、驚いたことに、教会讃美歌266番(バッハの作曲した讃美歌)が神父さまの説教の後で歌われました。主が私たちを生と死を超え、言葉や文化、習慣、思想や歴史の違いを超え、教派や宗教の違いすらも超えて、私たちを一つに結び合わせてくださっている! 様々な事柄が起こる中で行われたそれらの主の恵みの食卓は深い慰めに満ちたものでありました。フィリピ書冒頭のパウロの挨拶と祈りの言葉とが、その喜びの基調音と共に、私の中でこの一週間に経験した韓国での出来事と重なり合い、響き合っています。

今日もキリストの食卓に私たちは招かれています。主があの十字架を通して備えてくださった恵みと平安の食卓にご一緒に与ってまいりましょう。お一人お一人の上に神さまの祝福が豐かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年10月1日 聖霊降臨後第17主日聖餐礼拝 説教)