説教 「平和と愛と喜び」 大柴譲治牧師

エフェソの信徒への手紙 2:13-18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

花火大会

昨夜(8月4日)は東京では花火大会がたくさん行われたようです。皆さんの中にも見にゆかれた方がおられるかも知れません。教会でも夜8時になりますと、豊島園でしょうか花火大会が行われていたようで、比較的近くに花火の音が一時間ほど続いていました。私はしかし、実はそれを複雑な思いで聞いていたのです。

一週間ほど前、私は韓国の雪岳山と書いて「ソラクサン」と読む、韓国北東部の海の近くにある韓国有数のリゾート地で、韓国の親族たちと一緒に夏休みを過ごしていました。そこは38度線よりも北にある国境沿いの地域でもありました。夜皆で近くの川原に散歩に出かけたときに、花火の音がして、空が明るくなったのです。「ああ、今夜はここでも花火大会があるのですね」と言ったら、妻の姉のご主人が「おそらくあれは花火ではないだろう。軍隊の練習ではないか」という言葉を小さく語られたということを後から妻から聞いて、少し恥ずかしい気持ちになったのです。ドーンパラパラパラとそれは全く花火と同じ音でした。空に光が上がったのも照明弾であったようです。

日本にいると「平和」であるということが当たり前に感じますが、実は世界ではそうではない。至るところで紛争があり、戦争があり、暴力によって命が奪われているのです。そして愛する者を守るために力に対抗するためにこちら側も力を備えなければならないという悲しみに充ちた現実があるのです。

ここにお集まりの年輩の方々の中には、花火の音を聞くと、戦争中のことを思い起こす方々がおられるのではないかと思います。私はこの教会に着任した4年前の夏、現在はご入院中ですが、当時90才の緒方順子さんから、戦争の時にまだ小さかったご自分の息子さんを亡くされ、自分で薪を組んでその遺体を火葬にふしたということをお聞きして言葉を失いました。皆さまの中にもそのような悲しみの体験を重ねてこられた方は少なからずおられるのではないでしょうか。この8月には戦争の苦しみを思い起こされる方もおられましょう。

 池田政一牧師について

しばらく前に、戦争中に一年の間、獄に囚われた池田政一牧師の引退記念文集である『わが生涯の傷跡』を読みました。それは甲府教会のメンバーたちによって1979年に編集されたもので、その編集者のお一人が佐藤福子(旧姓山本)姉でした。この本も福子さんにお借りしているものです。

池田牧師はもともとホーリネス教会(日本基督教団教団第6部)の牧師でしたが、戦後は日本福音ルーテル教会牧師として働きました。静岡、島田、焼津、甲府の教会を歴任。獄中にいたときに、幼いお嬢さんを一人亡くされています。

池田牧師の獄中で作られた短歌のいくつかをご紹介いたしましょう。獄中にあった池田先生の揺れ動く思いが伝わってきます。

律法の光つめたき獄にも めぐみの光あたたかにして

鉄窓の深夜に醒めて祈るかも 我が日の本の国やすかれと

これやこの人に知られぬ道ならむ 黙して仰げ主の十字架を

千年も昨日の夢と過ぐるらん 神のみ前に心澄まへば

鉄窓の霊なる我は悟れども 肉なる我はいたく悩めり

聖僧の如く悟りて座りませ 飢えも渇きもせめも恥をも

妻子らの名を彫りつけて偲び泣く 男ありたり此のひとやにも

日本基督教樹立のための犠牲(にれ)なれば などか恥なん獄にあるを

我が身にて我が身にあらぬ我が身かな 飲むも食うも出ずるも入るも

差し入れの来たりし時は目に涙 子供の如くなりてよろこぶ

こころを吐露して乞へどにべもなく 閉じられにけり重き鎧戸

涙して辿る獄の谷底に 人の情の泉をぞ知る

鳴かずんば鳴くまで待たうほととぎす おのづからなる時のいたるを

武士道も基督道も身を捨てて 死ぬることにぞ真ありけり

たどりつく岸辺あるらむ潮騒や 時の流れに身をば托して

こおろぎのいたく鳴く夜半鉄窓に いとし子の死を知りて悲しむ

帰る日のあるべき父を待たずして 吾子は帰らぬ人となりけり

キリストと出会うということは、ある時にはこのような苦難の十字架をも背負うということでもあるのだということを痛切に思わされた書物でした。現実には私たちの人生には、そのようにいわれなき苦しみ、痛みを背負わされることがあります。「わが神。わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか!」と叫ばざるを得ないときがある。

平和と愛と喜び

本日は、そのような中でみ言葉が与えられています。エフェソ書はキリストこそ私たちの平和であり、敵意という隔ての中垣をキリストが十字架において粉砕してくださったと告げています。和解することができないでいた二つのものが十字架において一つとされたというのです。そこには神と人との、そして人と人との和解の献げものとして神の子羊が十字架という祭壇においてほふられたということが意味されているのでしょう。人間の現実には分裂と暴力と愛のなさの中で、一つとなることができないという悲しみと痛みの中で、キリストの十字架は与えられている。

十字架とは何か。さらしものとなる恥と肉体を貫く釘の痛みと死の恐怖と徹底した孤独と、神に捨てられた絶望の中で息を引き取るということです。それは人間の目には敗北にしか見えない。無惨な終わりにしか見えない。どこにも希望がない、暴力による全く無念の死でしかない。しかしそのような十字架の悲惨さの中に、神の勝利が隠されていたということを聖書は告げているのです。それは私たちの目には本当に不思議に思います。

キリストは我が子の死を目の前に見なければならなかった母親、我が子を自分の手で火葬しなければならなかった母親の痛み悲しみを背負うために十字架にかかられた。キリストは民族分断のために終わることのない分断の悲劇を味わい続けている人々の悲しみを背負うために十字架にかかられた。キリストは獄中にあって、我が子の死を知って悲しむ一人の信仰者の悲しみを背負うために十字架にかかられたのです。

それはキリストご自身がそのような十字架を背負うことで、無力さの中で、絶望し、どこにも希望を見出すことができない中で死を迎えるしかなかった者の友となるためでした。復活は人間の希望が絶えたところに上から与えられたのです。死の中に命があり、敗北の中に勝利がある。主は本日の福音書の日課(ヨハネ15:9-12)でこう言われています。「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

聖餐への招き

実はこの直後に、本日の日課にはなっていませんが、主はこうおっしゃった。「友のために命を捨てる、これより大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。これから聖餐式に与ります。主は十字架の上に命を捨てることによって、これより大きな愛はないほどの愛を示してくださった。

聖餐に与ること、それはキリストの愛の祝宴に与ることです。神のアガペーの愛は愛のない世界に愛を創造してゆく愛なのです。どんなに現実が悲しみや争いや困難に満ちていても、キリストはその十字架の愛をもって人間を造りかえてくださる。敵意という隔ての中垣を永遠に取り除いてくださるのです。暴力に神の愛が勝利する。そのような世界の到来のためにキリストは私たちを用いようと招いてくださっているのではないかと思います。キリストに従うことの中にこそ尽きることのない愛と喜びがある。ご一緒に聖餐式でそれを深くかみしめ、味わいたいと思います。

新しい一週間も、お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。アーメン。

お一人おひとりの上に神さまの愛の力が豐かに注がれますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 8月 5日 平和主日 礼拝説教)