説教「神は人を分け隔てなさいません」 大柴譲治

ガラテヤの信徒への手紙2:1-10

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「えこひいきをされる神」(三浦綾子)

新聞の懸賞応募作品の『氷点』で作家デビューされた作家の三浦綾子さんの言葉に次のようなものがあってハッとしたことがあります。三浦綾子さんは1999年に77歳で天に召されましたが、キリスト者としての強い信仰を持った作家としても有名でした。北海道旭川市出身で、結核闘病中に洗礼を受けたことでもよく知られています。以降、結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながらも著作を続けた方でもあります。皆さんの中にも三浦綾子さんの作品を愛読されている方もおられることでしょう。その三浦綾子さんがこう言っておられます。「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしているのではないかと思います。」病気の苦しみを通して自分は自己の罪深さを自覚し、そしてキリストの十字架の赦しへと導かれた。これは神の自分に対する偏愛ではないかと言うのです。

私は最初にこの言葉を聞いたとき、自分の病気の苦しみをそのように位置づけることができるのはなかなかすごいことだと思いました。キリストを信じる信仰は、自らの苦しみを自らの背負うべき十字架と理解して、それが主イエス・キリストの十字架へとつながっているものと見てゆくのです。この言葉を語るまでのプロセスには大変なご苦労があったことと思います。度重なる病魔との戦いの中で、痛みを味わい、希望を打ち砕かれ、自分の無力さを嫌というほど味わわされてゆかれたのだと思います。しかしその中で、キリストへの信仰という宝を与えられ、キリストへの服従という生き方を示されたのです。主は言われました。「だれでもわたしに従ってきたいと思うものは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と。

カウンセリングやいのちの電話の訓練などで、自分自身がこれまで歩んできた生育歴を振り返るという作業をされたことがある方もおられましょう。一枚の白紙に一本の線を書いてみていただき、真ん中に横に一本の線を引きます。これが誕生から今までの自分の人生を表すとします。たとえば、自分自身の人生で嬉しかった出来事を三つ、苦しかった出来事を三つずつ考えてみてください。生育歴を振り返るということはいろいろと大切な気づきを与えてくれます。時代状況というものもあるでしょう。家族のことや学校のこと、仕事のことなど、人生には様々な出来事が起こります。戦争体験をお持ちの方もおられましょうし、三浦綾子さんのように病気で死線を越えてこられた方もおられましょう。思わぬ事故や災害や事件など思わぬ苦しみを負わされた方もおられるかもしれません。

三浦綾子さんは苦しみのどん底でキリスト者との出会いが与えられ、キリストを信じ、洗礼を受け、キリスト者となりました。キリストを信じる信仰が、三浦綾子さんの壮絶な病気との闘いを支えてきたと言ってもよいでしょう。「神さまは自分をえこひいきするほど豊かな恵みを与えてくださっている」というのは、三浦綾子さんならではの味わい深い信仰告白の言葉だと思います。そして実は心の深いところで、キリストと出会った人は、そのような思いを与えられているのではないかと思わされるのです。それは、パウロの2コリント12章の言葉を借りるならば、「弱いときにこそ強い」という「信仰の逆説」とも呼べるかもしれません。

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。(8)この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。(9)すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(10)それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:7-10)

同時にパウロのローマ書5章の言葉を思い起こします。

(1)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、(2)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(3)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、(4)忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(5)希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)

自分の弱さと無力さの中で、打ち砕かれ、キリストの現臨の力と神の愛を感じること。ここに信仰の不思議な力があるのです。

「人を分け隔てしない神」(パウロ)

ガラテヤ書を7月から連続で読んでいますが、本日は2章の前半です。ガラテヤの諸教会では、生前のイエスと出会ったこともないパウロがなぜ自らのことを「使徒」と呼んでいるのかが問題とされていたということを申し上げてきました。「使徒」というのはイエスご自身が直接選んだ「12弟子/使徒」のことだけを指すのだと考えていた人々がいたようです。このことの背後にあるのは人間の権威の問題でした。弟子たちも繰り返し誰が一番偉いかということや、誰が主イエスの右と左に座るかというようなことを議論していました。人間は、特に男性というものは、序列を付けたがるもののようです。

それに対してパウロは1:1で、自分は「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたと宣言しています。イエス・キリストの直接啓示によるのだというのです。そしてそれは、キリスト教の迫害者であった自分が生まれる前から神によって計画されていたことであって、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のだというのです(1:15-16)。人間的な上下の序列を生み出す権威ではなく、一人ひとりを召し出し氏名を賦与する神の権威をパウロは意識しているのです。

1章の後半でパウロは、注意深く、エルサレムの教会とのつながりを説明しています。

わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、(17)また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
(18)それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、(19)ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。(20)わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。(21)その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。(22)キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。(23)ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、(24)わたしのことで神をほめたたえておりました。(ガラテヤ1:16-24)

「ケファ」というのは12使徒の筆頭であったペトロのことですが、ここで「主の兄弟ヤコブ」というのは12使徒の一人のヤコブではありません。「イエスの弟のヤコブ」が初代教会においては指導者の一人になっていたのですが、そのヤコブを指しています。12使徒の一人であったヨハネの兄弟ヤコブは殉教しています(使徒12:2、ヘロデによって)。この主の兄弟ヤコブは、後には「義人ヤコブ」と呼ばれるほど尊敬を集めた人であったようです。

それから「14年後」に再度パウロは「啓示によって」エルサレムを訪問します(2:1)。この二回目の訪問は、ルカによって使徒言行録15章で報告されている「エルサレム使徒会議」のことでありました。この「使徒会議」が正確にいつ行われたかは分かりませんが、恐らくそれはA.D48年の春頃にエルサレムで行われたと考えられています。アンティオケア教会(この教会はパウロの母教会でもありましたが、異邦人伝道に熱心でした)の代表であったパウロやバルナバらとエルサレムの原始教会の使徒たちや長老たち(ヤコブ、ペトロ、ユダ、シラスら)との間で開かれた会議で、異邦人キリスト者も救いの条件として割礼(律法)を守る必要があるかどうかが議論されました。そしてそこでは、パウロの主張する律法から自由な異邦人伝道が認められたのです。恐らく主の兄弟ヤコブがパウロを擁護したことが大きな影響を与えたのだろうと考えられます。そしてペトロたちエルサレム教会はユダヤ人伝道に、パウロたちアンティオキア教会は異邦人伝道に専心することが決定されたのです。この二つは車の両輪のように考えられたのでしょう。どちらも大切な初代教会の伝道の働きでした。

この「エルサレム使徒会議」は初代教会において異邦人伝道が正式に位置づけられた会議として重要な意味を持っていました。逆算するとパウロの回心はA.D.33年頃起こったことになります(2:1の「14年後」というのを回心から数えるか、第一回エルサレム訪問から数えるかで、誤差は1-2年あるかもしれませんが)。主イエスの十字架刑がA.D.30年4月7日であったと推定されますから(「ニサンの月の14日」「過ぎ越しの祭りの準備日」(13:1、18:28など)「金曜日」)、パウロは十字架と復活から三年ほどしてからダマスコ途上での劇的な回心を通して「異邦人の使徒」としてイエスの召しを受けたことになります。

本日の箇所には「おもだった人々」とか「柱」と目される人々(ヤコブ、ケファ、ヨハネ)という表現があります。このヨハネはゼベダイの子で漁師であった、ヤコブの兄弟の使徒ヨハネのことです。同時にパウロはこう言います。「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません」(6節)。若きファリサイ派のエリート律法学者であった時のパウロから到底考えられない権威から自由になった信仰者の姿がここにはあります。若きパウロは人間の序列や権威といったものに熱心であったに違いありません。ですから律法遵守に対しても熱心だったのです。しかし神は人を分け隔てなさらない。律法の行いではなく、ただ信じることによってのみ救われる(義とされる)。これがパウロがキリストから示された恵みの事実でした。

事実パウロはキリスト教の迫害者であり、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(1:13)。そのような「敵」であったにも関わらず、神の恵みの選びを受けたのです。神は人を分け隔てなさらない!神はすべての人を等しく愛しておられる!これがガラテヤ書における大切な主題の一つです。キリスト者の自由/解放は、この神の分け隔てのない本物の愛に触れた時に与えられてゆくのです。「おもだった人々」とか「主の兄弟」とか「教会の柱とされている人々」とか関係ないのです。それはどうでもよいことなのです。一人ひとりが神の前に等しく置かれているのです。そして私たち一人ひとりを神はその独り子を賜るほどの強い愛を持って愛してくださっているのです。私たちはただそのことを信じればよい。割礼や律法の遵守は求められないのです。

しかし、このことをどこまでも問題としていた「潜り込んできた偽の兄弟たち」がエルサレムにもいたことが記されています(2:4)。彼らこそパウロの使徒職がどの権威から与えられたのかを問題にしていた人々でした。彼らは律法を守ることは大切であり、人間の正しい行いも救いには必要不可欠であると考えていました。そしてどこまでも人間的な権威を問題としていたのです。彼らにとっては「おもだった人たち」や「教会の柱」とされる人たちの存在が重要でした。(サタン/蛇はいつも近くにいます。ここでも使徒会議/教会の中にいることに注意してください。)しかしそのことは彼らに大切なことを見失わせていたのです。「キリスト・イエスによって得ているキリスト者の自由」と「福音の真理」を見失わせていました。4-5節には次のようにパウロは記しています。

(4)潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。(5)福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。(ガラテヤ2:4-5)

福音の真理に立ち続け、人を恐れず神を畏れる一人の信仰者の姿がここにはあります。注意深く言わなければなりませんが、年齢や性別や国籍や職業や能力や業績や地位や財産や、健康であるか病気であるか、障害を持っているかいないかなど、教会での役割や働きなども含めて、神は人を分け隔てなさらないのです。そのようなことは(この世は重んじるかもしれませんが)神の前ではどうでもよいことなのです。私はこの「私」というかけがえのない人間存在として、神によって愛されるため生まれているのです。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

「熱情の神」

最初に三浦綾子さんの「えこひいきされる神/偏愛の神」について申し上げました。度重なる病気との苦しい戦いの中で三浦綾子さんは自分のためにその独り子を賜るほどに自分をえこひいきしてくださる神に出会ったのです。パウロはキリストと出会うことで「人を分け隔てされない神」の愛を知りました。「キリスト者の自由」「福音の真理」を知ったのです。神の前にはユダヤ人も異邦人も、男も女も、奴隷も自由人もないのです。

どちらも同じ「神」のことを語っています。同じ神の真実の愛を全く違った言葉で表現できるところがいいですね。神は私たち一人一人を、分け隔てなく、えこひいきされるのです。私たちの神は「熱情の神」(出エジプト20:5)です。私たちすべてを、惜しみなく愛してくださっているのです。ここにキリスト者に注がれた神の愛と自由があります。聖霊の風は思いのままに吹くのです。この風は私たちを信仰によって解放してくださいます。この聖霊の風に吹かれて、神の備えてくださった自由の中に、私たちは新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に豊かな主の祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年8月8日 聖霊降臨後第11主日説教 ガラテヤ書連続説教03)