説教「母の胎内にあるときから」 大柴譲治

ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「イエス・キリストの啓示によって」

今回はガラテヤ書連続説教の第二回目です。宗教改革者マルティン・ルターはガラテヤ書を最も愛し、そこから力を与えられて行きました。生涯に四度も講解し(1516/7、1519、1523、1535)、そのうちの二度の講解は出版されています。ルターはガラテヤ書のことを「ケーテ・フォン・ボラ」(自分の妻の名)とも呼んでいます。それほどこの書を愛し信頼したということでありましょう。

前回、パウロが使徒とされたのが「人々からでもなく、人を通してでもなく」イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神によってである(1:1)、ということを学びました。それはガラテヤの教会においてパウロの使徒性が問題となっていたからでもありました。生前のイエスとは会ったことがないはずのパウロが、誰の権威によって主イエスご自身が選んだ「12使徒」と並ぶ「使徒」という名を名乗っているのかということを問題とした人々がいたのです。パウロはその人々によって惑わされたガラテヤの教会員に対して断固として語ります。

兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(11-12節)

人と人とのつながりという水平次元を問題としていたガラテヤの人々に対してパウロは、イエス・キリストとのつながり、神とのつながりという垂直の次元に目を向けるように強調しているのです。私たちが今ここで礼拝に集っているということの背後には、多くの信仰の先輩たちとの出会いがあり、執り成しの祈りがあったためですが、しかしそれを越えて、イエス・キリストご自身、神ご自身が私たちを捉えてくださったという事実があるというのです。それが大切です。

13節からはパウロが直接自分の過去を語っているという点でも大変貴重な歴史資料となっています。

あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(13-14節)

パウロは自分の過去についてはほとんど語らないのですが、フィリピ書3章にある次の言葉を本日の言葉と重ね合わせて理解することできましょう。キリストと出会う前の、「若きファリサイ派エリート律法学者」としてのパウロの、誇り高きプライドを強く感じる箇所でもあります。

「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:4-11)

「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」とパウロはここで自信をもって語っています。これはまことにすごいことだと思います。よほど自分に自信がないと語れない言葉です。あるいはもしかするとパウロは、ここで自分のかつての愚かさを笑うような思いで語っているのかもしれません。その頃の自分は実に自分のことしか見ておらず、大切なことが何も見えていなかった。憐れにも自分はそう思い込んでいた。しかし、キリストを知る「すばらしさ」のゆえに、それまで価値あると思っていたすべてを「損失」であり「塵芥」であると見なすようになったというのです。

キリストと出会うということは、私たちの古い価値観を木っ端みじんに打ち砕き、それ以外のすべてを相対化し新しくしてくれる、それくらいすごいことなのです。福音にはダイナマイトのような力がある。復活の主との出会いは、カチンカチンの律法学者、律法主義者であったパウロを打ち砕き、ただ信仰によって生きる全く新しい人間として造りかえたのです。信仰による本当の解放と自由がここにあります。

パウロがダマスコ途上で突然、天からの光に照らされ、復活の主イエスから「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と名前を呼ばれて、目が見えなくなり、劇的な回心を遂げたことが、使徒言行録の9章、22章、26章に三度に渡り、パウロと伝道旅行を共にした医者ルカによって繰り返し記されています。ルカは福音書を書いた後、その続編として使徒言行録を書きました。ルカはパウロ自身からダマスコ体験のことを聞いて、それを記したのだと思いますが、パウロ自身はダマスコ体験を直接的には語っていません。しかし、「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」という11-12節の言葉はそのような出来事を背景にしていると考えられます。「啓示」というのは英語で言えばrevealという言葉から来ていますが、「隠されていたもの」を神ご自身が「明らかにしてくださる」という意味です。

「母の胎内にある時から」

パウロは突然天からの光に照らされ、復活の主に呼びかけられて劇的な回心をしました。パウロはそれを12節では「イエス・キリストの啓示」、15-16節では「神が、御心のままに、御子をわたしに示して」という表現で淡々と語っていますが、その啓示から、迫害者としての自分の歩みを含めて自分の過去のすべてをフラッシュバックのように振り返らされて、すべてを神の恵みの選びという光の下で理解したのでありましょう。ですからパウロはこう記すことができました。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のだと(15-16節)。

母の胎内にある時、つまりこの世に生まれる前から、神は自分を「異邦人のための福音の使徒」として選び分け、恵みによって聖別し、立ててくださっていたというのです。私たちの人生にはしばしば、自分の人生を振り返ってみて、長い間分からないでいたこと、つながらないでいたことがスーッとつながって、「ああ、そうだったのか!」とストンと腑に落ちる、合点がゆくという天啓のような体験が起こります。目からウロコ体験です。パウロは復活の主と出会うことを通して、自分の人生が生まれる前から神さまの使命(ミッション)によって定められていたことを知るのです。それは「異邦人のための福音の使徒」としての自分のミッションでした。

聖書の中には、実は「母の胎内/子宮」という言葉はしばしば登場してきます。特に旧約聖書には何度も出てきます。コンコルダンスを調べますといくつかの単語が使われているようですが、創造主なる神が特別な使命を与え、生命を形づくってくださったということが告白されています。一番よく知られているのはエレミヤ書1章に出てくるエレミヤの召命の言葉でしょうか。

主の言葉がわたしに臨んだ。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:4-5)

あるいは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのです)」という言葉で始まる詩篇22編にも次のような言葉があります。

「わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」
(詩編22:10-12)

信仰者というものは、ある時点で、神ご自身がこの「私」の生命を特別な使命のために創造してくださったのだということを知るものとされます。自分の人生の目的/目標を知るといってもよい。このために自分は生かされているのだということに気づかされるのです。私たち一人ひとりにとって、母の胎にある時から恵みによって選び分けられたその「使命」とは何でありましょうか。それは「愛」です。神がその独り子を賜るほどにこの世を愛されたということを知り、それを人々と分かち合うことです。それは私たち一人ひとりがキリストの福音によって生かされるということであり、それを周囲の人々と分かち合って生きるということであります。韓国生まれの讃美歌にあるように「君は愛されるため生まれた」のです。

神の使命

主イエスはヨハネ福音書15章で次のように語っておられます。15章は主イエスの告別説教の一部でもあります。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:11-17)

私たちキリスト者は、この「新しい戒め」のために生命を与えられている。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。先週は立野先生が、よきサマリア人のたとえから説教をしてくださいましたが、「私にとって『隣人』とは誰か」と自分中心の生き方/立場から隣人を問うところから、「誰がこの人の隣人となったか」と主イエスが言われたように、「困窮の中にある者の隣人に、私自身がなってゆく」という苦しむ者中心の生き方/立場へと変えられて行くことが求められているのです。

パウロも主イエスと出会うことによって、律法中心の生き方から、キリスト中心の生き方へと変えられてゆきました。律法主義者であったときにもパウロは神中心の生き方をしているという自覚を持っていたはずですが、実はそれは恐れと不安に満たされた生き方でした。人を裁き、そのことによって自分自身をもギリギリと八方塞がりの恐怖の中に追い詰めて行くような不自由でモノローグ的な生き方でしかなかったのです。「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」であったパウロは、自己完結的でしたが、復活の主と出会うことを通して(復活の主ご自身がパウロに呼びかけられたのです)、「自分中心の、自己完結的な、律法を守る自分を誇る生き方」から「キリスト中心の、キリストを誇る信仰的な生き方」へと転換(トランスフォーム)させられました。人は行いによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされるということ。ここに本当のキリスト者の自由があるということをパウロは主イエスとの出会いによって「目からウロコ体験」のように知らされたのです。

自分を誇る者は愛を知りません。キリストの愛を知る者だけが打ち砕かれて、神の愛によって自分が「母の胎内にある時から恵みによって選び分けられ」ていたことを知るのです。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためなのです。

ガラテヤ書は愛と自由の手紙と呼ばれる手紙です。最初に申し上げたように、この手紙は宗教改革者ルターが「自分の妻」と呼んで愛した最愛の手紙でもありました。ルターはガラテヤ書に示されたパウロの信仰によって、人はただ信仰によってのみ義とされるのだということに目が開かれたのでした。律法にこだわり、人間にこだわり、自分にこだわるパウロが、キリストを信じる信仰によって全く新たにされ、自由にされたことを私たちもそこから学んでゆきたいと思います。

福音とは、信じる者にとっては神の力であって、復活のキリストが私たちにご自身を啓示してくださるのです。「啓示」とは隠されていることを神ご自身が明らかにしてくださることを意味しています。母の胎内にいた時から恵みによって選び分けてくださった父なる神の「恵みの選び」を味わいながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。私たちの人生にはそのような意味と目的があるのです。

お一人おひとりの上に、神の恵みの選びを深く味わう信仰が与えられますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年7月25日 聖霊降臨後第9主日説教 ガラテヤ書連続説教02)