説教 「憂愁から喜びの世界へ~ルターの見出したもの」 内海 望

ローマの信徒への手紙 8:31-39

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

憂愁から喜びの世界へ~ルターの見出したもの

宗教改革主日に当たってルターの生き方を通して福音を聞きましょう。いろいろ伝承があるにしろ、ルターが修道院に入った動機は「罪人としての私」と「裁き主である神さま」との和解を得たいということにあったことは事実です。言い換えれば、「自分は救われている」という「確かさ」が欲しかったのです。神さまとの和解がなければ、死んでも永遠の責め苦に会うという「罪と死への恐れ」が、彼を修道院に走りこませたのです。修道院で神さまに喜ばれる行いをするなら神さまと和解でき、安心して死ねる、永遠の生命が約束されると信じて、修道院に入ったのです。迷信的な色彩が残っているとしても、ヨーロッパ中世期の人々の神と罪に対する鋭い、繊細な感受性は、現代の私たちが取り戻すべき感覚ではないでしょうか。霊的な感受性(スピリチュアリティ)です。イエスさまが、「義に飢え渇く人々は、幸いである」(マタイ5:6)とおっしゃったような人々が数多くいたのです。

修道院でのルターの神さまとの和解のための努力には驚くべきものであったようです。後年、当時の自分の努力を振り返って、「もし行いによって救われるとしたら、それは私であった」と自ら語っているほどです。しかし、実際に、そこで発見したものは、自分の心の奥底に潜んでいて決して克服することの出来ない根源的な罪・原罪でした。「修道士として定められた規則に従って生きようと私は非常に努力し、苦痛を忍んだ。私はいつも先ず自分の罪を全部悔い改めて、ざんげを頻繁に繰り返した。そうして私に課せられた罪の償いを熱心に果たそうとした。しかし、依然として私の良心は安心を得ることができなかった。私は絶えず自分が不十分でなかったかと自問し、『お前は十分悔いていない。懺悔からもれているものがあるのだ』と考え続けた。」と語っています。「底なしの淵」(黙示録)に落ち込んだとルターは感じました。「底なし」とは、「人知を越える」「想像を絶する深み」です。

私たちは、人々が矢のように放つ視線を受け、その視線によっていらいらして怒ったり、おどおどと恐れたりして神経症的な生き方になっています。言い訳、弁解、かんぐりがいつも心に溢れています。

しかし、ルターは、人間でなく、神さまの鋭い容赦ない視線の中で苦しみました。神経症どころか「一人の人を知っている。・・・その苦しみは舌でもって語ることも、筆を持って書くことも、経験することも出来ないほど大きく、かつ地獄的であった。このような状態が続いたならば、人は全く破滅し、その骨は灰になってしまうだろう。」と語っている程の苦しみに出会ったのです。ルターは、言い訳も、弁解も出来ない場所に立たされたのです。「神の前に立つ」とは「死」を意味したのです。神さまに打ち砕かれたのです!

彼が苦しんだのは、根源的な罪・原罪、自己を神とする自己中心主義の奴隷となっている自分を発見したからです。ルターは「自己は自己に向かって傾き、自己を神とする罪から逃れることが出来ない」と語っています。神さまでない者が神さまのように振る舞い、自己を高め、人を裁く、ここに人間のあらゆる罪の根があるのです。

修道院でのルターは神さまとの和解どころか、この罪との戦いに敗れ去ってしまったのです。自我を抑えることが出来なかったのです。「破滅し、人間がすべての力、業、存在において無となり、一人の悲惨な棄てられた罪人になってしまった」と「底なしの淵」で嘆くルター。「信仰によって義とされる」とルターは語りましたが、「信仰によって罪人となる」とも言っています。そこには罪に打ちのめされ、絶望のどん底に突き落されてしまった人間の姿があります。深い憂愁の思いから逃れることが出来ない修道士の姿があります。このようなルターを「過敏不安症だ」と診断する人もいます。

しかし、私はむしろ神さまの前で堂々と自己と向き合い、勇敢に戦い、敗れ去った一人の誠実な人物の姿があると評価します。私たちは中途半端であり、神さまと、人々の視線を恐れ、おびえながら、同時に逃げ隠れ、弁解を繰り返し、捉えようのない不安の中を漂っているのです。

ところが、ルターは、決して救われることのない罪人として打ちのめされ、破滅し、人間の力、業において無となったのです。

しかし、まさに打ちのめされたその時、「底なしの淵」にまっさかさまに落ち込んだと感じた時、ルターは福音に出会ったのです。つまり、どうしても罪から逃れ得ない、棄てられた罪人を、み子イエス・キリストの十字架の愛によって100%救って下さる神さまの義を発見したのです。

今までは何とか自分の努力で義人となり、神さまと和解しようとしていたルターでしたが、「神さまが罪人を義と認めてくださる」(ローマ5:6)という十字架の福音に出会って、そこにすべてを委ねたのです。今までは、点数稼ぎに神経を痛めていた人が、自我を捨てイエス・キリストの愛にすべてを委ねたのです。その後のルターは、今日読んで頂いたローマ8章31節以下を信じて生きる者となりました。

私たちは「私はこれだけのことを行なった」と頼りにならない安っぽい手すり(点数)にしがみつき、自分を人よりも優れた人物として神さまに売り込もうとしています。ひそかに「自分の方が彼より立派だ」という暗い優越感にひたっています。

その自分を優れている者とする手すりから思い切って手を離し、キリストの十字架に100%身を委ねた時、ルターは「私が!私が!」という自己主張から解放され、自由となり、真の平安、穏やかな心を得たのです。

ルターは「あなたは確固たる信仰(信頼)をもってキリストに身を委ね、思い切ってこれに信頼すべきです。そうすれば、その信仰の故に、あなたのすべての罪は赦され、あなたの滅びはすべて克服され、あなたは義となり、真実となり、平安を与えられ、あなたはすべてのものから自由にされます」と語っています。「私たちの計画がやみ、私たちの業が鎮まり、私たちが全く受動的な神関係に立った時(無となった時)、私たちは神の計画を受け容れる者となった」とも書き残しています。

このように、「全く受身となり」という姿勢は、決して消極的な生き方でなく、積極的な勇気ある恵みへのジャンプなのです。ルターは生涯不眠に悩まされ、妻のケーテをして「私は看護師のようでした」と語らせたほどでした。その後も、彼は何度も罪に打ちのめされ、倒れました。しかし、決して倒れたままでは終りませんでした。キリストの十字架の愛によって再び立ち上がることが出来たのです。

そして、喜ばしいことに、あの宗教改革という教会をもう一度新しく立ち上がらせる大きな業に参加する喜びを与えられたのです。「私は、祈り説教することしかしなかったのに、神はわたしによってどんなに多くのことを成し遂げられたことか」と神さまのみ力と、用いられる喜びに満たされて、穏やかな心で生涯を終ることが出来たのです。パウロも同じ経験を語っています。「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことを報告した」(使徒言行録14:27)。

私たちも、人々の視線に振り回され、神経症的に「義人になろう」とする傲慢な心を捨て、100%本物の罪人となり、100%キリストの十字架によって罪赦された罪人として、穏やかな心を持って生きていきたいと思います。

しかし、この信仰は自分の喜び、安心に留まりません。ルターは「もし、あなたが恵みに生きるならば、その恵みは生きて働き、君を通して隣人にも流れ出る」と書いています。私たちは自分がどんなに弱く、罪深い者であっても神さまに用いて下さるのです!神さまが私たちの人生を用いてその愛を隣人にも与えて下さるのです。私たちを愛の業に用いて下さるのです。ルターは「神さまがあなたを用いて大きな事を行おうとしていらっしゃるという信仰を失ってはならない」と語っています。神さまが私たちを当てにして下さるのです!人生の終わりの日まで、私たちは神さまに当てにされているのです!何と素晴らしい人生でしょうか。まさに「生きて甲斐のある人生」です。勇気と望みをもって、恵みに生きましょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年10月28日 宗教改革記念主日礼拝)