たより巻頭言「一枚の踏み絵」 大柴 譲治

「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)

人生にはしばしば予期せぬ事が起こる。1月末、礼拝後に教会員の田坂宏兄より一枚の木板を手渡された。踏み絵である。御尊父の故田坂誠喜氏が研究のために入手されたものだという。転居にあたり神学校に寄贈したいということでお預かりした。それを手にした時、正直言って心が震えた。目にしたことはあっても手にしたのは生まれて初めてだったからである。大きさは高さが25cm、幅が18,6cm、厚さが3.5cm。重さは1kg。持つと思いのほか重い。中央部には変色した青銅のキリスト像が埋め込まれている。両手を合わせて祈るキリスト像。踏まれ続けたからであろう、組まれた両手と右膝の部分は白く磨り減っている。

手でそっと像をなでてみる。どれほど多くの足がこれを踏んだのだろうか。ある者はいとも簡単に踏み、ある者は心で泣きながら踏んだに違いない。踏むことができずにキリシタンであることが分かって処刑された者もいたのであろう。重たい歴史を感じて心が痛む。どのような経緯で田坂先生はこれを入手されたのであろうか。昭和9年の阿蘇夏季学校で先生が「日本基督教殉教史」を講義した記録が残っている(福山猛編、『日本福音ルーテル教会史』、ルーテル社、 1954、p393)。「殉教史」とはもちろん、踏み絵を踏まなかった者たちの歴史である。

遠藤周作の『沈黙』には踏み絵を踏んだ者たちが描かれている。

「司祭は足を上げた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はおまえたちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」(新潮社版遠藤周作全集、第2巻、p312)

十字架に私たちの恥と罪とを背負ってくださったお方がいる。このお方の愛が私たちを捉えて放さない。2月13日より四旬節。主の十字架の痛みに思いを馳せたい。

(なお、踏み絵の大きな画像はフォトギャラリーをご参照ください。)