「やさしく聖書を学ぶ会」から  浅野 直樹

創世記3章には「罪」の問題(罪の起源ということではありません)が取り上げられています。このことは聖書の主要な関心事ですし、また私たちキリスト教信仰においても重要なテーマの一つだと思いますが、現代においてはどことなく敬遠されているようにも感じています。しかし、今日の混乱した社会情勢を見ても、また、ままならない個々人の現実生活を考えても、決して無視できないのではないか、と思うのです。

聖書が示す「罪」とは、決して犯罪めいたものばかりを言うのではありません。元々は「的外れ」という意味だからです。本来的なあり方、生き方からズレてしまっていることを聖書は「罪」と言います。では、そのズレは何をもたらすのか。愛の関係性からこぼれ落ちてしまう(関係性の破れ)、ということでしょう。罪の結果、最初の人アダムとエバは互いが裸であることが分かって体を隠した、と言います。つまり、互いに隠し事が生まれる。信頼しきれない何かが生まれる。牽制し合う何かが生まれる、ということです。ここに、本来的な愛に生きられなくなった人の姿があります。

もう一つの結果は、神さまから身を隠す、ということです。堂々と神さまの前に出ることのできない後ろめたさが人を捉えます。そのように罪の結果が、神さまとの関係においても、人との関係においても、私たちの現実を支配することになってしまいました。

イエスさまの十字架による贖い・罪の赦しとは、そんな傷つき壊れてしまった愛の関係性を本来あるべき姿に回復するためなのです。

むさしのだより:2016年7月 31日発行