右みて左みて  徳弘 浩隆

 早いものでブラジルに7年となりました。貴重な経験をし、今後も牧師が交代で行くことは意味深いことだと思っています。総会では、JELCの牧師不足もあり私の延長した3年で宣教師派遣が終わると決められましたが、現地での日本人牧師の必要性や、牧師や教会の伝道スピリットをいきいきと保つためにも、交換牧師などの方法で道が続くように祈っています。

 さて、日本に帰ると街並みのきれいさや、秩序正しさ、お店の接客の丁寧さに驚かされます。大方のブラジル人は、明るくておおらかだけれども、いい加減で約束もあまり正直に守らない、なんて言われますから。しかし、日本では窮屈さも感じます。みな同じような服装、まじめなスタイル、仕事に一生懸命。そして他人と違うことをすることや、レールから外れた時の不安、そんなものにも気を使いながら生きざるを得ない様子も感じるからです。私たちは、それほど、生まれ育った環境や、周りの常識、人間関係に影響されて生きているのだと思います。

 今日の説教題は、「右みて左みて」です。小学生の交通安全教室のようですね。私たちは子供のころから、道を渡るときは、「右を見て、左を見て、もう一度右を見て、手を挙げてわたること」を教えられてきました。運転免許を取るときは、「右よし、左よし」と声に出して確認させられたりもしました。しかしどうでしょう、ブラジルではこれは通用しません。自動車が右側通行だからです。交差点では、まず左側を見なければなりません。左を見て車が来ていなことを確認して、次に右を見て奥のほうの車線にも車が来てないことを確認する、そしてもう一度左を確認して、車がいなければ速やかに渡るのです。つまり、右を見て左を見るか、左を見てから右を見るか、これは自動車が右側通行か左側通行かで違ってくるわけですね。しかし、私たちの習慣は恐ろしいもの。私はまだ、ブラジルでも「右を見て左を見て」しまいます。しまった、逆だった、と思い、きょろきょろ何度も左右を見るのです。

今日の聖書
 こんな話が今日の聖書とどんな関係があるのかと、思われるかもしれません。しかし私は、昇天主日の聖書を読んで一番に思い出したのが、この体験でした。イエスキリストが、弟子たちが見ている前で、天にあげられました。弟子たちは、それを見つめ、最後まで見つめ、もう見えなくなってもずっと、天を見ていたのでした。その時、二人の天使らしき人がこう告げます。「なぜ天を見上げて立っているのか」と。その言葉で弟子たちは、はっと我に返らされたのです。「名残惜しそうに、天ばかりを見つめていているばかりではいけない」と。彼らは足元を見つめ、それぞれの自分の生活、または使命に向かって歩き始めたのです。

振り返り
 私たちは、毎日、何を見て生活しているでしょうか?天ばかり見上げているかもしれません。いや、いつも、自分の足元ばかり見ているかもしれません。天ばかりを見つめている人はどうでしょうか?聖書を読んで、祈って、素晴らしい信仰かもしれません。しかし、自分や家族の生活が見えていないかもしれません。その苦しさや、悲しみに、本当に心を寄せていないかもしれないのです。足元ばかり見ている人はどうでしょうか?しっかりと確かに歩いているかもしれませんが、自分の足と見える道のりだけを頼りにし、時として迷い、疲れて座り込んでしまうかもしれません。

 私たちは、キリストの十字架により、信仰によって救われました。天を見上げて、感謝して歩んでいき、やがて行く天国を見つめて生きています。しかし、まだ続く地上の生活の、もろもろの出来事の中で生きてもいるのです。この天と地のギャップを、矛盾を埋めるために、キリストは来られ、十字架にかけられ、私たちと神様との仲保者になってくださいました。私たちキリスト者の生き方は、天を見て、地を見て、そして天を見上げながら、キリストとともに今を確かに生きるということです。信仰生活の交通安全標語を作るとしたら、「天を見て、地を見て、もう一度天を見て」という言葉がふさわしいかもしれません。

勧め
 私はブラジルで毎日のストレスと忙しさから、一人自分を外に置きたいと月曜日はできるだけお休みをいただいています。人のお世話をして、何かを教えるということが多いのが牧師です。重荷を感じても、日本語で相談できる牧師仲間も先輩牧師もそばにはいません。月曜日は、近所のカトリックの教会のミサに行ってみることが多くなりました。教えられる側、座っていて讃美歌を歌う側になるのも、新鮮なものです。

 ある日、神父さんがこう聞きました。「今日中に奇跡が必要な人は手を挙げてください」その日の聖書は、キリストが若者の病気を治すところでした。何人かの人が手をあげました。わたしも、つい挙げてみました。頭の痛い問題がいくつかあり、何とか解決しないかと、祈っていたからです。神父さんはこう続けます。「今は夕方の6時半、あと数時間しかないけれど、今日中に奇跡が必要なんですね?」と。みんなは、神父さんを見つめます。私も、この先どうなるのかとみていました。何かいいことが起こらないかとも思ってもいたからです。すると神父さんはこういいました。「ならば、神の国と神の義を求めなさい」と。「あー、そうだ。やられたなぁ」と思いました。

 私たちは、目の前に問題があると、そればかりを見つめさせられます。小さなものでも、どんどん大きく見えてきて、押しつぶされそうになります。しかし神父さんは、聖書の言葉をひいて、「まず神の国と神の義を求めなさい」といわれました。「そうすればすべてのものは添えて与えられる」と続くからです。下ばかり見ていた私たちに、上を見るように、天を見上げるように、促されたのです。
 私たちに必要なこと、それは、「右みて左みて右を見ること(日本では)」、そして「天を見て地を見てもう一度天を見上げること」。それが大切な信仰生活です。昇天主日のこの日、そのことを覚えて、神様とともに毎日を歩んでいきましょう。

brazil-tokuhiro

2016年5月8日説教