巻頭言    浅野 直樹

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみをうける。」
(マタイによる福音書 5:7)
「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』
と主なる神は言われる」エゼキエル書18章32節

皆さんもご存知のように、熊本を中心に地震による大きな被害が出てしまいました。「えっ、九州で…」と思ったのは、私だけではないと思います。私はこの4月に大柴先生の後任としてむさしの教会に着任いたしましたが、前任地は静岡市の小鹿教会と清水教会でした。

ちょうど、あの3・11のあった2011 年3 月6日に按手を受け、五日後の11日に入院先のベッドの上(詳しい話しはまた今度!)で震度5弱の揺れを経験し、前述の前任地に赴いたのでした。正直、身内からは静岡に行くことに危惧の声も上がりましたが、あれから5 年、心配したようなことは幸いにして起こりませんでした。しかし、今度は初めての転任を経験した直後にまた大きな地震が起こってしまった…。なんだか複雑な思いです。直接被害に遭ったわけではありませんが、やはり色々と考えてしまいます。「神さまがいるなら、どうしてこんな惨たらしいことが起こるのか」。こういった大きな災害に直面したときに、多くの方々(私たちも含めて)がもたれる問いではないでしょうか。

前述のように、わたしは直接的には震災に遭った経験を持っていません。しかし、長男の闘病と死を経験いたしました。もちろん、全く違った経験です。しかし、長男の病気は「十万人に数人」という確率の脳腫瘍(髄芽腫)でした。正直、「どうしてうちの子が…」と思ったものです。七転八倒の毎日、神さまを恨む日々でした。
しかし、その最中(さなか)でこうも思わされてきました。当たり前のことに、当然のことに気づいていなかった、いいや、背を向けていたのではないかと。子供だからといって不治の病に罹らない保障など何もないのに、死なない確約など何もないのに、どこかで元気に生き続けることが「当たり前」だと思っていたのではないかと。そして、こうも思いました。実は、そんな「当たり前」と享受してきたものこそが奇跡なのではないかと。「当たり前」と思っていた家族、健康、平安、幸せ、生きるということが、実は奇跡の連続だったのだと。その「当たり前」を失って、ようやく気付かされたようにも思ったのです。震災は奪うだけでなく、多くのことに気づかせてもくれました。

ありふれた「当たり前」の幸せ、人の温かさ、絆の尊さ…。もちろん、そんなことで被害に遭われた方々の心は癒えないのかもしれない。「どうして」という問い、悲しみ、痛みは消えないのかもしれない。正直、私は未だにそれらの方々に語る言葉を見出せずにいます。しかし、だからこそ「信仰」なのだと思う。何事もなく無事に生きられるから、ではなく、それが私たちの現実でもあるから信仰なのだと思うのです。私は未だ答えを得ていません。正直、恨み節もあります。それでもいい、その問いは無くならないのだと思う。それでも、この信仰が…、「生きよ」と言ってくださる神さまを、イエスさまを信じる信仰が私を、そして長男を支えてくれた、守ってくれた、救ってくれたと心底思うのです。だからこそ、この信仰をますます養っていきたいし、この信仰を現実の世に、人々に伝えていきたいのです。

むさしのだより5月号 巻頭言