たより巻頭言「骨伝導で聴く声」 大柴 譲治

「見よ、わたしはおまえたちの中に霊を
  吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」

               (エゼキエル37:5b)

妙なことを覚えていたりするものである。高校時代、生物の先生が変わり者だった。生物が三度の飯よりも好きというタイプである。しかし、その授業は本当に面白く飽きさせず、生徒に人気があった。好きこそものの上手なれである。その先生の影響で生物の分野に進んだ者もいたくらいである。おそらく人は好きなことをやっている時に一番輝くのだ。そして輝いている人の姿は美しく魅力的である。

その先生がある時、「人は皆、自分の声はすばらしいと思っているんですね」と言った。「でも、テープレコーダーに録音された声が自分の声だとは誰も思わない。それが聞き覚えのない変な声なので皆驚くんです。それはなぜかというと、自分の声は耳の外から入るだけではなく骨からも聞いているからです。顎の骨を伝わって響いてくる声が直接耳に伝わり、外から空気を伝わって少し遅れて耳に入ってくる音と干渉し合う。ですから人は皆、自分の声だけはその両者の合成音を聞いているのです。だから普通自分の声はいい声だと思っています。」なるほどと思った。確かにテープに録音された自分の声は変である。自分がいつも聞きなれている声とはずいぶん違う。しかしそれが他人の耳に聞こえている自分の本当の声なのである。それを知った時はショックであった。なるほど、正しい自己認識を得ることは困難なのだと妙に納得したことを思い起こす。

最近、世界で初めて「骨伝導」を使った携帯電話ができたと言う。その電話はソニック・スピーカーと呼ばれる振動装置を装備していて、骨の振動で相手の声を聞くため、雑踏の中でも相手の声が聴き取りやすいのだそうだ。なるほどうまく考えたものである。その話を聞いた時、今から30年も前の高校の先生が言ったことを前述の言葉を思い出した。人間の記憶のメカニズムというものは真に面白い。「しかし待てよ」とハッと思い至った。もしそうだとすると、その骨伝導携帯はその人にしか聞えないはずの声を他の人にも伝えてくれるということになるのだろうか。耳の外から入ってくる声と骨伝導の声とを同時に聞くことになるからである。

エゼキエル書37章には「枯れた骨の谷」の情景が描かれている。枯れた骨が神の言によって漸次復活してゆく場面である。それほどまでに神の声は再生の力に充ちているのだ。それにしても枯れた骨は骨伝導で神の声を聞いたのであろうか。そう思うと自然に頬が緩んでくる。

時は春。緑が芽吹いてゆく命の再生の季節を迎えた。万物は神の霊によって生きる。これは骨の膸に響く言葉である。


(2004年 3月号)