たより巻頭言「心の待ち時間」 大柴 譲治

「時々、遠くを見ること。それは現実の中で、悠久なるものとの出会いを与えてくれる。」(星野道夫)

最近特に印象に残った言葉がある。10月11日の市ケ谷教会との合同修養会の中で講師の柴田千頭男先生がご紹介くださった動物写真家・星野道夫(1952-1996)のエピソードである。場所は南米のアンデス。登山の途中、ある地点まで進むと現地で雇ったシェルパたちが突然座り込んで動かなくなってしまった。日当を倍にするから何とか先に進んで欲しいと頼んだところ、彼らからは全く予期せぬ言葉が返ってきたというのである。「私たちはここまで急いで来すぎてしまったので後ろに心を置き忘れてしまった。だから心が追いついてくるまでここで待つのだ」と。何か心のさざ波が静められてゆくような含蓄のある言葉である。

現代人は忙しい。「忙しい」という字は「心を亡ぼす」と書く。「忘れる」という言葉も同様である。もし私たちが毎日を急ぎすぎているとすれば、心が追いついてくるまで静かに待つ時間が私たちにも必要なのだろうと思う。もっとゆったりとしたペースで日々を過ごしたいと願いつつもそれが果たせないことの方が多い。だからこそこのシェルパの言葉が心に響いてくるのであろう。

星野道夫氏のことを私はそれまで知らなかった。興味を抱いたので調べてみると、氏はアラスカに20年近くも住みついて大自然の写真を撮り続けた。じっくり時間をかけて撮った作品群は現代人が忘れかけていたものを思い起こさせてくれる。1996年、熊に襲われて急逝。その後全国で行われた巡回展には45万人の人が足を運んだそうである。その作品(文章と写真)の一つひとつが心に深く響いてくるのはなぜであろうか。それが私たちに永遠の今を感じさせてくれるからではないか。たとえば、没後まとめられた『オーロラの彼方へ』(PHP、2001)という小さな写真集にはオーロラの写真に次のような言葉が添えられている。「人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう。」私にはそれが雪の結晶のようにも思えるのだが、心の待ち時間をたっぷりかけた真実の言の葉であり永遠を宿した瞬間の写真なのだ。

私たち信仰者にとって日ごとに聖書を読む時間、また主日礼拝の時間は「心が追いつくための待ち時間」と位置づけられよう。週に一度、共に集まって神の前で静かに自分を見つめる。心を伴ってこそ私たちの真実の生があり、命がある。もう一つ星野氏の言葉を記しておきたい。「時々、遠くを見ること。それは現実の中で、悠久なるものとの出会いを与えてくれる。」


(2004年11月号)