『エンキリディオン・小教理問答』クラスの実際   大柴 譲治

〜 むさしの教会の事例(5)〜 

セッション④

主の祈りは最初に「御名をあがめさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と神の御心の実現を求める三つの祈りが来ます。その後に「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」「われらを試みに会わせず」「悪より救い出したまえ」という人間の願いの実現を求める四つの祈りが来るのです。私たちが祈る場合、多くは自らの願いの実現を神に祈り求めることが多いのですが、主の祈りは違うのです。まず「神の御心が成りますように」と祈っている。このような構造のゆえに、主の祈りを反復して唱える時に私たちの心は次第に整えられてゆくのでしょう。言わば「かたちから入る」のです。

「人間の感情は理性には従わないが行動には従う」と認知行動療法や最近の脳科学の知見は告げています。確かに、背中を丸めてうつむいたまま「頑張らねば」と思っても私たちの気持ちは変わりませんが、姿勢を正して胸を張り、顏を上げて目を上に向ける時に私たちの気持ちはフッと持ち上がるのです。私たちの気持ちは具体的な行動を通して変えられるのです(Lift up your heart!)。

私たちは悲しいから涙しますが、涙を流すとさらに悲しくなる。嬉しいから笑うのですが、笑うとさらに嬉しくなってゆくのです。行動と感情とは不即不離の関係にあるのです。書道でも華道でも武道でも、芸事は最初に「基本形」を学ぶことに意味があると思われます。「かたち」から入ることはとても重要なことです。その意味で、「キリスト道」(信仰生活)も「十戒」「使徒信条」「主の祈り」という「かたち」から入ることは大切なことと思われます。

 

セッション⑤

「洗礼と聖餐」では、「恵みの手段the means of Grace」としてのサクラメント(聖礼典)に言及するようにしています。常にそのイニシアティブ(行為の主体)はどこまでも神の側にあることを再確認しています。

 

セッション⑥

「教会構造と信仰生活」では、JELC全体の構造を視野に入れつつ、むさしの教会の総会資料を用いて教会組織について説明します。献金についてもここで触れます。献身・献財の基本的な考え方としては、私たちに贈り与えられているものの「10分の1」ではなく「10分の10」が神さまのものであり、そのことの感謝と献身を表すしるしとして献金があることをシェアしています。この教会に召された信徒の一人として教会を支える義務があることや、信仰生活の中心は礼拝にあることを確認した上で、礼拝の中で行われる洗礼・堅信・転入式文についても具体的に説明します。教保を誰にお願いするかについてもここで話し合います。洗礼時のみでなく堅信や転入時にも私はできるだけ教保を立てるようにしています。また、洗礼名についての希望があればここで聞いておくようにしています。祈ることをもって90分6回に渡る、一対一の小教理クラスを閉じてゆきます。

以上が、私が1986年に牧師按手を受けてほぼ30年間、コツコツと積み重ねてきた小教理クラスについての現場からの実践報告です。牧師が真剣かつ一生懸命向かい合ってくれることに受講者たちは安心するのでしょう。一人ひとりが神の前に「かけがえのない(irreplaceableリプレイスできない大切な)存在」であることを、そのセッションを通して私たちは分かち合っているのです。

「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」とイザヤが告げている通りです(43:4)。この30年間、私は神さまの救いのドラマにその最前列で参与する栄誉に与っているのだと感じてきました。その思いはさらに深まってきています。

そのことを心から幸いに思っています。たとえ裸でかしこに帰らなければならないとしても、やはり「主の御名はほむべきかな」と共に告白してゆきたいと思っています。s.d.g.(完)