『エンキリディオン・小教理問答』クラスの実際 〜 むさしの教会の事例(4)〜大柴 譲治

01
三つ目の「使徒信条」では、「三位一体論」と「キリスト両性論」の二つに触れるようにしています。「三一論の神秘」については、ある先輩から「それは鰻丼と同じで、ウナギと山椒とタレが三位一体です」と語ると伺ったことがありましたが、それでは最初から説明を放棄することになりましょう。あるカトリック司祭は公教要理で「三位一体について説明せよ」という問いに「ああでもない、こうでもない」と答えようとする人には「×(バツ)」を、「分かりません」と答える人には「○(マル)」を出すと聞いたこともあります。確かに「三つで一つ、一つで三つ」という「三一論」は「理性」を超えた「神の神秘」に属する事柄でしょう。理性では把捉しきれないものが残ります。それでも私は以下のように四つの例話で説明を試みます。

「私」という「人間」:「私」は、「子」から見れば「父」であり、「親」から見れば「子」であり、「妻」から見れば「夫」である。「私」という一個の人間の中に「父」「子」「夫」という三つの役割が同居している。「父」「子」「聖霊」という「三つの位格」を持つ「ひとりの神」もこれと同様である。

「H2O」:1気圧の場合に「H2O」は、零度以下では「氷(固体)」、零度から百度までは「水またはお湯(液体)」、百度以上では「水蒸気(気体)」になる。本質は変わらないのに固体、液体、気体という三つの姿を取る。三位一体の神もそれと同様である(ただしこの場合「零度以下」と「百度以上」が何を意味するかは説明できないが)。

「光」:「光」には、「波」としての性質と「粒子」としての性質という二つの相反する性質が同居する。同様に「ひとりの神」は「父」「子」「聖霊」という異なる「三位格」を持つ(これはある科学者との小教理のクラスで私自身が教えられた説明です)。

「愛(アガペー)」:神の本質は「愛(アガペー)」。神は私たちにその「真の愛」を伝えようとして「父なる神」「み子なる神」「聖霊なる神」という三つの姿を取ってくださった。 以上、どれも「神の神秘」を説明し切れているわけではありませんが、私たちには「理性」というものも与えられていますので「知解を求める信仰」(アンセルムス)という姿勢も重要と考え説明に言葉を費やしています。私自身は②の「H2O論」と④の「アガペー論」が一番心に響くように感じています。

 

02
四つ目の「主の祈り」に関しては、最初にこれが「世界を包む祈り」「世界を守る祈り」であると説明します(ヘルムート・ティーリケ)。「主の祈り」は今この瞬間にも、この地球上のどこかで誰かが何かの言語で祈っている、そのような祈りなのです。24時間の祈りの輪がリレーされてゆくように、それは世界を包む祈りです。この祈りがあるからこそ、この世界は「より悪くなってゆくこと」から守られているのでしょう。

この祈りこそ「地の塩、世の光」です。私は「私たちプロテスタント教会には、カトリック教会のようにロザリオやメダイのような『お守り的なもの』はありませんが、この『主の祈り』が『お守り』のようなものです」と言うようにしています。大手術を控えた信徒などを訪問した際には次のように言うことも少なくありません。

「主がお教えくださったこの主の祈りには、さすがイエスさまが教えてくださっただけあって、そこには私たち人間の力を遙かに超えた大きな力が込められていて、それが必ず私たちを守ってくれます」と。「騙されたと思って、繰り返し繰り返しこの主の祈りを声に出して唱えてみてください。必ずや不思議な平安に満たされることでしょう」と言葉を続けます。

(以下は最終回として次号11月号に掲載予定です。)