「満ち溢れる主の祝福〜五つのパンと二匹の魚」  大柴譲治

二匹の魚と五つのパン

私たちは今日、五千人の給食の出来事が与えられています。たった五つのパンと二匹の魚でイエスさまが五千人を満腹させて、しかも残ったパンくずを集めると12の籠がいっぱいになったとある出来事です。本日はそのことの意味をご一緒に考えてゆきたいのです。

出来事の発端は「飼う者のいない羊のような群衆を主イエスが深く憐れまれた」というところにあります。この出来事は主の深い憐れみによって起こりました。実はこの記事は、ヨハネ福音書を含む4つの福音書のすべてに報告されていますから、そこからもこれが初代教会にとって極めて重要な意味を持つ出来事であったということが分かります。

 

五つのパンと二匹の魚を祝福する主

ヨハネ福音書では、五つのパンと二匹の魚を主イエスに差し出したのが一人の少年であったと報告されています。一人の少年が自分の持っているものをすべて主に差し出したのです。「たった五つのパンと二匹の魚で何ができるのか」と大人は常識的に考えたに違いありませんが、主イエスの呼びかけに答えて自分のすべてを主に差し出した少年の姿に私たちはハッとさせられます。主は常に私たちの持っているものを祝福し、それをご自身の憐れみの御業の中で豊かに用いてゆかれるのです。「五つのパンと二匹の魚」は確かに、空腹の五千人を前にしてはホンの僅かな、全く取るに足りないものにしか過ぎなかったでありましょう。

しかしそこで私たちの思いを越えた不思議なことが起こります。「すべての者が満ち足りて満腹した」とありますが、主の深い憐れみの御業、愛の御業に触れるときに私たちの中の何かが変わる。心の飢えが満たされるのです。私たちの貧しく困窮に満ちた現実が主によって豊かな祝福に満ちたものに変えられてゆく。主の祝福の御業です。

ヨハネ福音書の2章には、カナの婚礼で主が水を極上のブドウ酒に変えるという奇跡を行われたことが記されています。キリストが祝福してくださる時に私たちの人生は根底から変えられてゆくのです。否、さらに深く考えてみますと、私たちがこの地上の人生においてキリストと出会うということ自体が祝福の出来事であるということになりましょう。また、福音書は神が御子キリストを通してこの世を祝福されたことを繰り返し伝えています。たとえばマタイ福音書の山上の説教(5:3-12)。そこには主によって8つの祝福が宣言されています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる・・」(5:3-4)

ここで「幸いである」と訳されている言葉は「おめでとう!」とも訳せる言葉です。英語の聖書の多くが、”Blessed are the poor in spirit”とBlessed(祝福された)という語をギリシャ語原文のように一番最初にもってきて訳しているように、「おめでとう!心貧しき者たちよ」と訳すと主の思いがダイレクトに伝わってくるように思われます。

主イエスは「自分は神に見捨てられている」と思っていた貧しい人たちや悲しんでいる人たちを「おめでとう!」と祝福するため、およそ自分は神の祝福からかけ離れていたと思っていた人たちに神の祝福を伝えるためにこの地上に降り立ってくださったのです。それは私たちが、マルコ福音書を通して毎週の礼拝でみ言葉に耳を傾けてきた通りです。

主イエスは、汚れた霊に取りつかれて苦しんでいる人を癒し(マルコ1:21-28、重い皮膚病を患っている人を癒し(同1:40-45)、中風の人を癒し(同2:1-12)、手の萎えた人を癒し(同3:1-6)、ゲラサで悪霊に取り憑かれていた人を癒し(同5:1-20)、12年間も長血を患ってきた女性が後ろからそっとイエスのみ衣に触れることで癒された出来事で主は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言し(同5:25-34)、ヤイロの娘を甦らせているのです(同5:21-24、35-43。病気で苦しむ者たちをその苦しみから解放することで、神が彼らと共にいて、その祝福が一人ひとりの上に豊かに注がれているという神の恵みの事実を主は証ししておられるのです。

それはヨハネ3:16が「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と宣言している通りです。

そのことは本日の旧約聖書の日課であるエレミヤ書23章3-4節が語っていた預言の成就でした。神は預言者エレミヤの口を通して次のように預言しています。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない』と主は言われる。」

 

自分の羊飼いを持つということ

本日の五千人の給食のエピソードは、あのステンドグラスが描く詩編23編のみ言葉のように、神がその民のために「真(まこと)の羊飼い」を立てられたということを宣言した出来事でした。真の羊飼いがその牧場の羊の世話(牧会)をしてくださるというのです。「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴い、魂を生きかえらせてくださる。主は御名のゆえに常にわたしを正しい道に導かれる。たとえ死の陰の谷をゆくときも、わざわいを恐れません」。このような信仰を私たちに祝福として贈り与えるために主は来てくださったのです。

本日の出来事が派遣した12 人が戻ってきたところに置かれていることに注意したいと思います。5つのパンと二匹の魚という僅かなものを用いて五千人もの人々が祝福され、残ったパンくずが12籠(イスラエルの12部族)に満ち溢れたというのは、主がそうであったように、キリストの弟子である私たちの教会も、その祝福を人々と分かち合うために存在しているということが示されているのです。神はすべて必要なものを備えてくださいます。神の憐れみの御業に信頼してすべてを委ねてゆくことが求められています。

本日の旧約聖書が告げているように、私たちには「真の羊飼い」が必要です。「飼う者のない羊」のようにさまよい歩く私たちの姿を主は深く憐れまれたのです。「深い憐れみ」とは(ヘブル語でもギリシャ語でも)「内蔵」を意味する言葉ですが、主は民の苦しみや悲しみをご自身のはらわた(存在の中心)で受け止められたということです。主イエスは羊のためなら命がけで羊を守る真の羊飼いです。そのような羊飼いを持つ者は幸いです。この人生の中でイエス・キリストという羊飼いと出会うことができること自体が大いなる祝福なのです。

 

四福音書に共通のエピソード

羊飼いイエスは私たちが持つ「五つのパンと二匹の魚」を祝福し、それを人の思いを超えるかたちで「祝福の道具」として用いてくださるお方です。私たち自身にとって「五つのパンと二匹の魚」が何を意味しているかを考えながら、主の道をご一緒に歩みたいと思うものです。

私は牧師として悲しむ人や病床にある人たちを訪問する時にはいつも、何もできない自分の無力さを強く感じます。しかし無力なままでそこに召し出されていることを感じるのです。悲しみや病いを癒すことのできない無力な私が、無力なままで主の祝福を執り成して祈る時、そこには主が共にいてくださるということを強く感じます。私たちの「弱さ」を主は用いられる。4福音書がすべてこのエピソードを伝えているということには重要な意味があります。これは初代教会において溢れ出る主の恵みを示すために不可欠の出来事であったということです。

実は4福音書が共通して伝えている出来事はそれほど多くはありません。否、実は驚くほど少ないのです。
①「五千人の給食」以外は、4つの福音書が共通して報告しているのはたった10の出来事しかありません。
②祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと相談したこと
③ロバの子に乗ってイエスがエルサレムに入城したこと
④エルサレムの神殿でイエスが商人たちを神殿から追い出したこと、
⑤イスカリオテのユダがイエスを(敵に)引き渡すという(「裏切り」ではなく「手渡し」という語が使われていることに注意)イエスの予告
⑥鶏が鳴く前にペトロが三度イエスを知らないと否むというイエスの予告
⑦イエスの予告通りにユダがイエスを引き渡し、イエスが逮捕されたこと
⑧大祭司カヤファによる尋問
⑨ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されてイエスが裁判を受け、有罪が宣告されたこと
⑩イエスの予告通りにペトロがイエスを三度否定したこと
⑪ポンテオ・ピラトの命により、イエスが十字架につけられ、殺されて葬られたこと
⑫イエスが復活したこと(ただしマルコは空の墓のみ)

このように4福音書を並べてみると見えてくることがある。五千人の給食のエピソードは、平和の王として子ロバに乗ってエルサレムに入城したイエスが、エルサレムでは宮清めを行っただけで力ある業を何一つ行わず、ユダの手渡しやペトロの否認を経て、十字架上であっけなく処刑されて殺されてしまう。その出来事が、実は復活という光の中で明らかとなったように、私たち一人ひとりの罪の贖いのためだったということが浮かび上がってきます。そして実はその十字架と復活の出来事こそが、「飼い主のいない羊」のように彷徨い続けた私たちをもう一度本当の飼い主である神のもとに取り戻すためのものであったということを明らかにしているのです。

キリストの十字架と復活の出来事は、私たち一人ひとりの罪を贖い、私たちを罪と死と絶望から解放するための神の憐れみの御業であり「救いの出来事」でした。「主はわたしの牧者であって、わたしには欠けたところがない」お方です。エレミヤが預言していたように、このキリストこそが神が立てられた真の羊飼いだったのです。その時に、五つのパンと二匹の魚しか持たないようなこの私が、主の愛によって造り変えられ、その憐れみの中で祝福され、このままのありのままの姿で、尽きることのない深い喜びの中で主によって豊かに用いられてゆくことを知るようになるのです。ここに真の祝福があります。生きることの喜びがあります。祝福しながら天へと昇ってゆかれた昇天の主の姿をルカ福音書は記していますが(24:50-51)、主は天の上から今も私たちを祝福してくださっています。その祝福をいただき、その祝福を反射しながら私たちは生きるのです。

主の祝福を人々に分かち合い、互いに執り成し合い、祈り合って私たちは生きる。アブラハムが「祝福の基(源)」とされたように、「五つのパンと二匹の魚」を持つ私たちは、「祝福の器」として「互いに主の祝福を執り成し合う者」「祝福を祈り合う者」として出会ってゆくのです。この祝福は主から与えられる祝福でありますから、どのような困難の中にあっても決して揺らぐことのない祝福です。互いに主の祝福を分かち合う者であり続けたいと思います(映画『おくりびと』や『隣る人』、小説『悼む人』のように)。そのためにも主の十字架の出来事、贖いの出来事をご一緒に見上げてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

2015年8月16日 聖霊降臨後第12主日礼拝説教