たより巻頭言「心に響く言葉との出会い」 大柴 譲治

「さあ、僕の秘密を明かそう。とっても簡単な秘密だ。ものを正しく見たいなら心で見なくちゃいけない。だって大切なことは目には見えないんだから」(サン・テグジュペリ)

心に響き続ける言葉がある。そのような言葉と出会うことができる人生は「豐かな人生」と呼びうるであろう。「名は体を表す」と言うが、確かに言葉というものはそれを発する人の人間性(品格decency)を表していよう。深い次元での言葉との出会いは、人間との出会いでもある。人は死しても言葉は残る。その意味では出会いは時空を超えている。人生は実に神秘に満ちている。

「人間にとって根源的な言葉が四つある」と6月に三鷹で開かれたRichard Groves師のセミナーで聴いた。 I’m sorry.(ごめんなさい)、I forgive you.(あなたを赦します/もう気にしなくていいんだよ)、Thank you.(ありがとう)、そして I love you.(愛しています/あなたが大切なんだ)の四つである。確かにその通りであろう。しかし、それらはシンプルな言葉であっても、心から相手に伝えることはなかなか難しくもある。しかしそれだからこそ、これらの言葉が真実に語られ受け止められた時、私たちは生の深い喜びに満たされるような大きなインパクトをもった言葉でもある。ルカ15章にある「放蕩息子のたとえ」が私たちに強く訴えてくるのも、実はこれら四つの言葉がその基調音としてそこに響いているからであろう。

これらはなぜ私たちの心に強く響くのか。考えてみると、それらは四つとも人間の絆/関係に関する言葉であり、しかも不協和音的な関係を調和の取れた協和音的なものへ再形成する言葉、つまり和解の言葉であることに気づく。私たちにモノローグ的閉塞を突破させ、ダイアローグ的人生を切り開く言葉であると言ってもよい。現実には破れた関係しか持ち得ていない私たち人間は、実は魂の深いところでは和解を求めて呻いているのだ。聖書は私たちが最初から「神のかたち」として人格応答的「我-汝」関係に創造されていると告げる。破れた関係の中では私たちは真の喜びと慰めを感じることはできない。あの子羊を抱く礼拝堂の羊飼いキリストのステンドグラスが私たちの心に深く迫るのも、あるいは主の十字架を巡る人間模様に私たちが自身の姿を重ね合わせて涙するのも、そこに私たちの破れと和解の両方が示されているからだと思う。究極的には私たちはキリストとの関係において四つの言葉を捉える必要があるのであろう。

Groves師は特に、死にゆく人生の最後の時においてこの四つの言葉について省みることが重要と語った。サン・テグジュペリが言ったように、大切なことは目に見えないのだから心で見なければならない。心に響く言葉との出会いが、私にとって心の目を開くための助けとなっているように思う。そこから人生が神の祝福に満ちていることが見えてくる。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1:31)

(2006年9月号)