たより巻頭言『ヌンク・ディミティス』 大柴 譲治

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)

クリスマスになると必ず登場する人物がいる。老シメオンもその一人。霊に導かれてシメオンがエルサレム神殿の境内に入った時、幼子のために犠牲を献げようとしてヨセフとマリアがイエスを連れて来た(出会いの背後に霊が働く)。シメオンがその幼子を腕に抱き、神を讚えて歌った頌歌が上記「シメオンの讃歌」である。そこでは長く待ち望んできたメシアとの出会いの喜びが高らかに歌われている。シメオンはここで「万民」の代表として歌っている。

私たちが毎週礼拝の派遣の部で歌う「ヌンク・ディミティス」こそ「シメオンの讃歌」である。それは心に染み入る歓喜の歌であり、キリストの祝宴たる礼拝の最後にふさわしい。私たちは告別式でも「ヌンク・ディミティス」を歌う。生きるにしても死ぬにしても私たちは天の民の喜びに与っているのだから。「わたしにとって生きるとはキリスト、死ぬことは益なのです」(フィリピ1:20)。シメオンのように、この喜びを味わうことができた者は幸いである。

十字架上で主の救いを得た一人の罪人をも思い起こす。主は彼に言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。「ヌンク・ディミティス」はそのような罪人の讃歌でもある。

シメオンは「正しい人」で「信仰の篤い人」であった。すなわち彼は常に神との人格応答的「我-汝」関係に生きる人であった。彼はまた「イスラエルの慰められるのを待ち望む人」であった。民全体の救いを祈り続けた。そしてシメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを「聖霊」から受けていた。聖霊は私たちにどんな状況にあっても希望を見失わせない。「為ん方つくれども希望を失わず」(2コリント4:8、文語訳)である。

クリスマスの出来事は私たちに真の希望とは何かを教える。望みなしに人は片時も生き得ない。人間を最後まで支えるものは神の整えられたこの「救い」であり「啓示の光」であるとシメオンは歌う。神の希望に向かって生き、死の門を越えて行ったキリスト者たちの言葉を思い起こす。「これが最後です。しかしこれが始まりです」(ボンヘッファー)。「ああ、これでオレは安心してジタバタして死んでゆける」(椎名麟三)。「人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」(松下容子)。それらは「永遠の今」を讃美する一人ひとりの「ヌンク・ディミティス」だった。

今は待降節。私たちもまた、主の到来を覚えながら、私たち自身の「ヌンク・ディミティス」を歌いたい。天には栄光、地に平和! お一人おひとりの上にクリスマスの主の祝福が豐かにありますように。

(2006年12月号)