「わたしにつながっていなさい〜光合成のように」 大柴 譲治

ヨハネによる福音書 15:1-10
 
「まことのぶどうの木」につながる

風薫る五月。緑の美しい季節です。本日の日課のヨハネ福音書15章には「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主の言葉が与えられています。「わたしとつながっていなさい」と繰り返し命じられているのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(4-5節)。

本日は、この「わたしとつながっていなさい」という言葉、「キリストにつながる」というキーワードから、み言に聴いてまいりたいと思います。そもそも「枝」は「幹」を離れては実を実らせることはできません。幹から養分(愛)をもらわなければ実どころか枝としての生命を保つこともできないのです。神は農夫として良いぶどうの実を結ばせるために手入れをして下さるのです。私たちに求められているのはどのような時にも「枝」としてキリストという幹とつながっていることです。主を見上げ、主から離れないということです。私たちが礼拝に集うのもキリストにつながっているからです。キリストとつながる中で私たちは「霊的な生命」を保ち続けているのです。
 
 
つながりの中の「いのち」

私は三年前から、今は月に一日ですが、緩和ケア病棟のチャプレンとして患者さんたちと接しています。そこで感じることは「人は生きてきたようにしか死んでゆけない」ということです。ガン細胞は人間の身体の中にある「生きようとする生命力(細胞分裂)」に乗っかってそれをエネルギーとして増殖してゆく病気です。検査や治療法も進んで早期発見も増えてきたためガンは必ずしも不治の病とは言えなくなってきています。また、通常でも私たちの身体には「がん細胞」は生まれていて、白血球やキラー細胞など私たちの身体に備わった「免疫力」がその増殖を阻んでいることが分かってきました。そのためにも私たち自身の日常生活での「免疫力」、「自己治癒力」を高めてゆくことが重要と言われています。

もう20年以上前のことですが私は、モンブラン登頂という「いきがい療法」で有名な倉敷の柴田病院の院長からお話しを伺ったことがありました。そこは仏教系の病院です。「五年生存率」ということを考えた際にそれが一番低いのは「諦めてしまった人」、逆に一番高いのは「ガンなんかに決して負けるものか」という気持ちで「闘い続けた人だ」と言われたのです(ちなみに、二番目に低いのは「宗教的な悟りを開いた人」ということでした)。「免疫力」には私たち自身の気持ちの持ちようや生きる姿勢(構え)というものが大きく作用するということでした。
 
 
無条件の愛〜光合成のように

ケリー・ターナーという米国人女性研究者の『がんが自然に治る生き方』という本があります(2014年11月出版。プレジデント社。原著は同年4月出版)。著者は千例に渡る進行ガンからの生還者についての症例を研究し、一年をかけて十ヶ国を訪問し百人以上にインタビューを重ね、治療のプロセスと結果を質的な研究としてまとめた博士論文がこの本です。原題Radical Remissionの通り、この本には「劇的に寛解」した人たちに見出された共通した実践事項が九つにまとめられています:①抜本的に食事を変える、②治療法は自分で決める、③直感に従う、④ハーブとサプリメントの力を借りる、⑤抑圧された感情を解き放つ、⑥より前向きに生きる、⑦周囲の人の支えを受け入れる、⑧自分の魂と深くつながる、⑨「どうしても生きたい理由」を持つ、という九つの姿勢です。

九つのうち二つだけが食事療法やサプリメントに関することで、後の七つはすべて生き方・生きる姿勢に関するものであることが印象的でした。それぞれ説得力に富む報告と分析が展開されてゆくのですが、その中にシンという名前の日本人患者が登場します(p.74−94。寺山心一翁氏)。バリバリのコンサルタントとして仕事に没頭する中、1984年、48歳の時に腎臓ガンと診断されます。手術で右腎臓を摘出、抗がん剤治療と放射線治療を受けたにもかかわらず肺と直腸への転移が見つかります。

「余命は一〜三ヶ月」と家族は医師に宣告を受けるのです。すべての治療を止めた後、シンは自分の直感に従う生き方を開始しました。自分で自分の治療法を決めてゆくのです。まずミネラルウォーターを飲むところから始めました。朝目が覚めたら生きていることに感謝をし、深呼吸して、日の出まで小鳥たちと一緒に歌います。ガンを自分の子供のように愛情をもって接し、限りないやさしさをもって「愛しているよ。そこにいてくれてありがとう」と毎日声かけをしていったのです。また、10代の頃から始めていたチェロを弾くことも再開し、身体全体に心地よい振動を与えてくれる音楽を大切にしています。そのような中で特に心に響くエピソードがありました。

彼はある時にいつものように日の出前に目覚めた時、小鳥たちの鳴き声に気づきます。普通の日常風景ですが、好奇心を誘われたのです。どうして朝、鳥は鳴いているのか。鳥はいったい何時から鳴き始めるのか。不思議に思った彼は10分、20分、日の出より早く起きてみましたが鳥は既に鳴き始めていました。30分前でも鳴いていたのです。しかし一時間前に起きてみると外は完全な静寂。結局、日の出の瞬間は毎日少しずつずれるにもかからず、鳥たちは日の出のぴったり42分前に鳴き始めていたことを彼は突き止めたのでした。鳥の鳴き出す時間が分かったら日の出までは手持ちぶさたなので彼は今度は毎日、鳥と一緒に40分間息を吸ったり吐いたりしながら歌を歌い始めました。

次に科学への造詣が深いシン(早稲田大学の電気科出身)は、なぜ42分前なのか理由を突き止めようとしました。息子に薬局で酸素ボンベを買ってきてもらい、家にいた三羽のインコで実験を開始したのです。インコたちを寝かせるために夜は鳥かごにカバーが掛かっていましたが、深夜0時頃に鳥かごに酸素を流し入れてみました。すると数分後にインコは鳴き始めたのです。何分かして酸素が消散した頃にインコは鳴き止みました。これは面白いと興奮した彼は、午前二時半まで待ってもう一度鳥かごに酸素を流しました。案の定インコたちは鳴き始め、数分後に鳴き止んだのです。そして日の出のきっかり42分前にインコは再び鳴き始め、日の出まで鳴き続けました。彼はそこで一つの仮説を立てました。

日の出42分前に鳥が鳴き始めるのは、木々が光合成を始め放出する酸素に反応しているのではないかと。植物は夜の間は光合成ができませんが朝に太陽光を甘受するとすぐに光合成を始めるのです。葉緑素があるため二酸化炭素を吸って酸素を放出するのです。それが日の出の42分前なのではないか。鳥が一番よく鳴くのが朝である理由は、まだ科学的には解明されていません。シンは鳥が鳴くにはたくさんの酸素が必要なので、朝、植物が光合成を開始し始めた頃に鳴くのだろうと推測しました。この小さな実験で彼は確信します。鳥が鳴き始める日が昇るまでの42分間の空気は特別に新鮮なものであり、ガンが転移した自分の右肺にとっても良いものであろう、と。

そしてこのときもう一つ、彼はある大切なことに気づかされるのです。自分という存在は大きないのちの中で無条件に愛されていること、そしてガンを含めて自分の身体全体を無条件にホリスティック(全体的)に愛してゆくことを。不思議なことに彼は劇的に寛解し、身体の中からガンは消えてゆきます。1988年から既に25年以上が経ちますが、彼はガンの再発もなしに元気に暮らしています。今はガンで苦しむ人々のためにチェロを弾きながら身体と心・魂といかに向き合うかを伝える活動に力を注いでいるということでした。「結局、あなたのガンを消したのは何だったと思いますか」と問うケリー・ターナーに彼は即座にこう答えています。「無条件の愛です」と。このエピソードを読んだ時、私は深く心動かされました。


悲しみや苦しみに出会う時に私たちは通常自身の中に閉じこもって自分を守ろうとします。そのような反応は当然であり自然なことです。しかしそのような中で自分の小ささや無力さに打ち砕かれる瞬間がある。その時に心の目が外に向かって開く瞬間がある。自分のいのちが大きなものにつながっているということにハッと気づかされる時があるのです。(鶏の声にハッと気づいたペトロ同様)寺山さんにとってそれは日の出42分前から始まった小鳥の鳴き声でした。主イエスはある時に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われました(マタイ5:45)。

神さまはその恵みをすべての人に等しく注いでいてくださるのです。自分の直感を信じ、自分の魂に深く裏打ちされたような生き方をする時、私たちには不思議なことが起こるのかもしれません。一番不思議なことは「ガンの劇的な寛解」ではありません。それも十分に不思議なことですが、ガンという病を通して寺山さんの目が大きな世界に向かって開かれ、世界とのつながりに気づき、生き方が根本的に変えられていったことがさらに不思議なことです。苦難の中で自分の中だけに閉ざされるのではなく、大きな世界に向かって開かれてゆくこと。大きな無条件の愛の世界につなげられてゆくこと、そこに自分がつながっていることに気づくことが最も重要な事柄と思われます。私たちが死すべき有限な存在であること自体は変わりませんが、そこではQOL(Quality of Life:生活の質・いのちの質)がグッと高められてゆくのです。

主イエスの言葉を想起します。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:4-5)。キリストにつながることで私たちにはその無条件の愛(アガペー)が注ぎ込まれ、私たちを通して実った「愛の実」を多くの人々が味わうことができるようになってゆくのです。
 
 
聖餐への招き
本日私たちは聖餐式に招かれています。この聖餐を通して、私たち一人ひとりが「まことのぶどうの木」であるイエスさまに「今ここで」つながっているということの幸いをご一緒に味わいたいと思います。風薫る五月、緑の木陰で主は、光合成のように、私たちに酸素の濃い新鮮な空気を与えてくれています。私たちのためにすべてを捧げ尽くしてくださったキリストの無条件の愛が、私たちに「豊かな愛の実り」をもたらせてくださいます。私たちもまた、そのキリストの愛を運ぶ器として用いられてゆくのです。

そのことをかみしめつつ、新しい朝の光の中、新鮮な空気の中に呼吸と讃美の歌声をあげながら、共にキリストを見上げて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主の恵みが豊かに注がれますように。
アーメン。
2015年5月3日復活後第四主日礼拝説教