たより巻頭言「情のエネルギー」 大柴 譲治

「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:33-35)

昨年一年間、いとすぎでは「聖書の中の感情」に光を当てて聖書研究を行った。そこで明らかになったのは感情はエネルギーであるという事実だ。特に、怒りや敵意や憎悪といった人間の持つ否定感情のエネルギーの大きさには驚かされた。そして「イエスを十字架に架けよ!」と叫ぶ私たち人間を、丸ごと引き受けてくださるお方の愛に改めて圧倒される思いがした。

最近、作家の五木寛之が繰り返し「情」の大切さを語っている(『情の力』講談社2002)。日本人は「情報」というものを単にドライな乾いたデータとして扱おうとするが、本来はそれはウェットな「情を報せる」という意味であったと五木氏は言う。確かに現代社会の中で日本人の心はみずみずしさを失って乾いてきているように思う。むさしの教会の礼拝堂が石やコンクリートにはない木造の温もりを感じさせてくれるということは、その背後に人間の持つ自然でウェットな「情」をしっかりと受け止めてくれるお方の存在があるからであろう。

主は人間の感情の力を知っていたし、それを大切にした。例えばヨハネ11章。兄弟ラザロを亡くして悲しむマルタの思いを主は深いところで受け止めて言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)。ズンとはらわたに響く言葉である。そしてその後、ラザロの墓の前で繰り返し激情に駆られる主の姿が描かれている(11:35 と38)。

人の心を引き裂き、自らの無力さに慟哭させる死の現実。主の憤りと涙は私たちを非人間化する悪しき力に対する宣戦布告でもある。悪魔は私たちの心を麻痺させ、何も感じなくさせるだけでよいのだ。しかし主は自らの「情」の力によって悪に勝利する。主は「ラザロ、出て来なさい!」と大声で叫ばれた。その声は私たちがどうすることのできない閉塞した現実を打ち砕く。「光あれ!」すると光があった。「エッファタ(開け)!」すると固く閉ざされていた五感が開かれた。ラザロはイエスの確かな声によって再び命の中へと呼び戻される。

主の「深いあわれみ」の声は、それに呼応するように私たちの中に「情」を呼び覚ましてくれる。モノローグではなくダイアローグの中で喜怒哀楽をダイナミックに味わって生きること。キリストに倣いて私たちも人間らしく生きること。主の十字架と復活は、私たちに真の人間性を回復するために与えられた神の救いの出来事なのだ。

(2008年3月号)