小教理問答クラスの実際

〜 むさしの教会の事例(1)〜      大柴 譲治


01) ルーテル教会であればどこでもそうでしょうが、むさしの教会でも受洗・堅信や他教派からの転入準備の際にはルターの『小教理問答』を用いています。昨年秋に『エンキリディオン(信徒必携)小教理問答』の新訳がでましたので、その学びのためにも今年は三回に分けて、私がこれまでどのように小教理問答を教えてきたかについて報告させていただきます。私の場合には、1986年に新卒で福山教会に着任して以来、①一対一で行う、②隔週ペースで90分セッションを最低6回行う、という二つの基本原則を貫いています。
02) 2012年のクリスマスを前にして、近畿福音ルーテル教会元総会議長の上野富夫牧師(教会員の八幡潔子姉の御尊父で、今年2/14に川越キングスガーデンで86歳の地上でのご生涯を終えて、すばらしい凛とした笑顔と共に天へと帰られました)のお孫さんで、八幡美里姉(当時18歳)の堅信準備を行いました。その際に八幡姉が持参された『小教理問答(試用版)』は『一致信条集』から抜粋・出版された特別版であったので、洗礼と聖餐の間に「罪の告白」が入っていて驚かされました(発行:西日本福音ルーテル教会・ビジョン21委員会、2003、非売品)。私の神学校の卒論の主題は、ルターが『大教理問答』の中で「第三のサクラメント」と呼んでいる「罪の告白Beichte」に焦点を当てたものでしたが、それを実際に小教理問答クラスの中で扱ったことはこれまで一度もありませんでした。八幡姉との小教理の際にも詳細は今後の課題として残しましたが、改めて今の時代に「罪」をどのように捉えるべきかという課題は重要な事柄であると感じさせられました(私自身の「罪」理解に関してはルター研究第8巻所蔵の拙論「罪guiltと恥shame」参照)。この度新たに出版された『小教理問答』新版には「罪の告白」が入っていますので、現代社会に生きる私たち自身の「罪理解」が問われることになりましょう。
03)「一対一の原則」は、アクティブメンバーを300名以上抱えるむさしの教会のようなサイズの教会では、最初の部分で、牧師が可能な限り丁寧に向かい合い、一対一で「信仰の基本」を共に確認することは大きな意味を有していると思います。「小教理クラス」のため牧師は時間とエネルギーを割くことになります。これまで平均すると年間5-10人程度の受洗者や他教派からの転入者が与えられてきましたので(1997年9月に私がむさしの教会に着任して以来、教籍簿には309人分の記録が加えられました)、時には3-5組の小教理クラスが並行して行われることになります。私は時折自分の名前をもじって「常時大暇」と自称しているのですが、それに反してクリスマス前などは文字通り多忙な「師走」となることが少なくありません。
04)「原則一対一」の利点は、どこまでも個々人のペースに応じて学びを進めてゆくことができるという点です。原則は「90分セッション6回」ですが、場合によっては相手が納得できるまで徹底的に付き合うため二時間、三時間、時には四時間もの長丁場になることもあります。また、小教理の内容を離れてカウンセリング的なセッションになることも少なくありません。そこで私が大切にしているのは、マルティン・ブーバーのいうところの「根源語『我と汝』を語る」という姿勢です。そこでは相手に真摯に向かい合うと共に、徹底して「共感的な受容と傾聴の姿勢」と「対話的な姿勢」を貫くよう強く意識しています。このように最初の部分で牧師が一人ひとりに対し心を尽くして向かい合うことは、受洗者・転入者にはとても強い印象を残すようです。教会が「聖徒の交わり」であることをぜひ感じ取っていただきたいという祈りと共に、牧師が一人ひとりの魂に対峙している時間でもあります。
(以下は次号に掲載させていただきます。)