説教 「靜かな炎」 大柴譲治牧師

ルカによる福音書 24:13-35

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

人生の途上で復活のキリストと出会うということ

イースターおめでとうございます。私たちは先週、主のご復活を祝いました。

本日与えられた福音書の日課は、エマオ途上で復活の主がご自身を二人の弟子たちに現される場面で、絵にもなっています。徒労と失望と苦い裏切りの記憶の中でエマオに向かっていた二人の弟子が、復活のキリストと出会う。そこで方向転換が起こる。そして彼らは、今度は喜びと感謝の中にエルサレムへと戻ってゆく。単なる目撃者であることを越えて、彼らがどのように復活のキリストを宣べ伝える者に変えられていったか、その推移が示されている点でも印象的な場面です。

本日は、二人の弟子たちのエマオへの道行きを私たち自身の人生と重ね合わせて、復活のキリストと出会うということがどういうことであるかということに思いめぐらしつつ、み言葉に聴いてゆきたいと思います。

エマオ途上での出来事

興味深いことにルカ福音書は、空の墓の出来事の直後に復活の主が最初にご自身を現されたのがエルサレムではなくてエマオ途上だったと告げています。しかも十二弟子ではなくて、それ以外の無名の二人に最初に現れたと記す。

もっとも33節を見ますと、復活の主に出会った二人がエルサレムに帰ってみると、十一人とその中間が集まって「本当に主は復活してシモンに現れた」と語り合っていましたから、エルサレムでも主はペトロに現れていたということが分かります。パウロも1コリント15:5で、復活のキリストはまず「ケファ(ペトロ)に現れ、12人に現れた」と記しています。ルカがエマオ途上の復活のキリストを第一に描いたのは、時間的な前後関係を表すためではなく、選びの先後関係を強調するためだったと思われます。

先週の説教で徳善先生も少し触れられましたが、パウロと共に世界宣教の幻を持っていた医者のルカは、女性であるとか病人であるとか、弱い者、小さき者に対する、周縁に置かれた者に対する暖かいまなざしを持っていると言えましょう。神はそのような小さき者たちを優先的に選ばれるのです。地理的にエマオはエルサレムよりも10キロほど離れた場所であったと推定されます。

クレオパともう一人の無名の弟子

弟子の一人の名前はクレオパでした。クレオパという名前は、ここにしか出てきませんが、ルカの属する教会の中では中心人物と目されていたと思われます。だからこそわざわざここに名前が記されている。「あのクレオパに復活の主が現れ給うた!」そのような驚きの声が聞こえてきそうです。

もう一人の弟子は無名です。名を持つ弟子と名を持たない弟子。実はこの二人が一組であることが大切です。思えばイエスさまも二人一組で弟子たちを遣わしました。12人を派遣するときも、72人を派遣するときもそうです。それは、一人ではないというところに大切な意味があるのです。イエスさまは言われました。「二人または三人が集まるとき、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と。信仰者は群れの中で、キリストの臨在を知らされるのです。

「教会はキリストのからだである」とパウロは言います。私たちは互いに兄弟姉妹を必要としている。一人のキリスト者は他のキリスト者を必要とする。弱いときに自分を支えてくれる者を必要とする。ボンヘッファーは言いました。「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのだ」と(『共に生きる生活』p10)。これは別の言い方をするならば、復活のキリストは一人の兄弟を通してご自身を現されるということでもありましょう。自分以外のキリスト者との交わりの中で今も見えないキリストはご自身を現しておられるということでもある。クレオパともう一人の弟子のことを思うとき、私たちはそのような信仰者と信仰者のパートナーシップの大切さを思うのです。

エルサレムからエマオに、エマオからエルサレムに

復活の主と出会ったときに弟子たちはそれが主であることが分かりませんでした。十字架の上に死んだ人間が生き返るなどありえないからですが、それだけではなかった。彼らの心は深い悲しみに閉ざされていたことがここでは強調されています。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった」(16-17節)。

メシアと仰いだ愛する師イエスが、全く何事も成し遂げないで、無力なまま十字架で殺されてしまった。今まで自分たちが信じてきたものは何だったのか。この時、神の民イスラエルの真の解放が起こるはずであったのに、何も起こらなかった。自分はこれから何を支えに生きてゆけばよいのか。これからは何が自分たちの身にふりかかってくるのだろうか。イエスの弟子たちということで自分たちもまた迫害され、ローマに対する反逆者の一味として十字架に殺されてゆくのだろうか。自分たちも無力なまま、師を守ることさえできなかった。守ろうとしなかったばかりか、ペトロをはじめ、自分たちも蜘蛛の子を散らすように十字架のもとから逃げてしまった。十字架のもとに残ったのは女たちだけだった。しかし不思議なことにその女たちがイエスは生きておられると天使に告げられたと言い始めた。弟子たちの心の中には、師を裏切った申し訳なさと徒労と失望とこれからに対する不安と婦人たちの体験に対する困惑とがブレンドされていたはずです。エルサレムからエマオへの道行きというのはそのようにたいへんに暗く重たい旅路だったのです。

復活のキリストがそのような彼らに、向こう側から近づいてくださり、ご自身を現してくださる。暗さの中で、悲しみや失意の中で、復活の主を見えなくさせるような遮断物のたくさんある中で、キリストがご自身から近づいてくださり、共にエマオへの旅をしてくださる。そして人生の旅の途上で、私たちに深く関わり、み言葉と聖餐式を通して、つまり礼拝を通してご自身の姿を私たちに示し、ご自身のご臨在を私たちに悟らせてくださる。本日の福音が伝えていることはそのことなのです。

弟子たちのこだわりと主の応答

「イエスはなおも先に行こうとされる様子だった」とあります(28節)。イエスさまには他に目的地がある。他の苦しむ人のためになすべき働きがある。「なおも先に」というのは「エマオの方角」です。それは二人の弟子たちがエルサレムの悲しみ、混乱から逃げてゆこうとする場所です。あるいは彼らの家や家族、職場といった日常生活が待っている場所であるといってもよいかもしれません。しかし彼らは、きびすを返してエルサレムに戻ってゆくことになります。

しかし二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた、とある(29節)。復活の主は私たちの深いところにある魂のニーズをご存じです。二人の弟子たちは正しく自分の感覚にこだわり続けたと言えるかも知れません。復活のキリストとは知らずに、自分の奥深くにある魂の飢え渇きを満たしてくれるお方を掴まえて放さないのです。

そのことを考えますと、私たちもまた自分の感覚に深くこだわってよいのかも知れません。ここぞと思う出会いに深くこだわってよい。遠慮しなくてよい。自分の問題意識にこだわり続けてよい。二人が無理に引き留めたので、復活の主は共に泊まるために家に入られたのです。キリストは私たちのために時間を割いてくださる。待ってくださるのです。黙示録の3章の終わりに、戸口に立ってドアをノックするキリストの姿が出てきます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いてとを開ける者があれば、わたしは中に入ってそのものと共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)。

そしていよいよ時が来ました。30-31節です。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。パン裂きというのは聖餐式のことです。二人はその姿の中に主の過越の食事の様子を思い出したのでしょう。聖餐式の中に現臨してくださる復活の主を感じ取ったに違いありません。

クレオパともう一人の弟子の証言を聞いた初代教会の信徒たちは、どれほど説教と聖餐が大切であるか、どれほど強くリアルによみがえられたキリストの臨在を証ししてくれるものであるか、讃美と感謝を持って実感したことと思われます。復活のキリストを記した部分は特に、迫害の中で苦しみながらも主にすべてを委ね続けた初代の信仰者たちの息吹のようなものを私は強く感じます。

いずれにしても、主が私たちと共にいてくださる。復活の主が教会の交わりの中にご臨在くださるということはどれだけ大きな慰めと支えと希望とを与えたことでしょうか。そして今も私たちに与え続けていることでしょうか。

静かな炎

復活の主のご臨在を知ったとき、二人の弟子たちは語り合います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。私はいつもこの言葉を読むと、不思議な感動に囚われます。復活の主が共にいてくださるというのは、後からそれに気づくような静かな燃え方で示されているからです。ボッと燃え上がるのではない。静かに、しかし確かに暖かくなるような燃え方です。遠赤外線ストーブが中から暖めてくれるようなものです。その時には分からなくても、後から分かることが多い。ここでは思い起こすこと、想起することの大切さを覚えるべきかも知れません。キリストの静かな炎、穏やかで忍耐強い愛で私たちの心は燃えるのです。静かに感じたこと、後から振り返って気づくことを大切にしてよいのだと思います。

エルサレムへの方向転換~「祝宴」としての礼拝

彼らはエマオにはゆかず、エルサレムにとって返します。驚きと喜びのうちにエルサレムに向かう。暗く思く苦い思いの内にエマオに向かっていたのと対照的です。復活のキリストと出会うということはそのような変化を私たちに与えるのです。復活の主が私たちの人生の中に新たに喜びを創造してくださるといってもよいかもしれません。今日の日課の最後の部分にはこうあります。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(33-35節)。これが使徒言行録に続いてゆくのです。

復活の主と出会った喜びが証言となってほとばしり出てゆく。これが礼拝が「セレブレイション」「祝宴」と呼ばれるゆえんです。私たちの人生のただ中における、私たちの出会いと交わりのただ中における、復活の主のご臨在を喜び祝う。これが説教と聖礼典を通して与えられる喜びであり、これが礼拝なのです。教会は新しい神の都エルサレムです。私たちはこれからもご一緒に、エマオへの道が私たち自身の日常生活を表しているとすれば、そのただ中で神の都エルサレムである教会に方向転換してゆくその両方の歩みを大切にしてゆきたいと思います。復活の主がお一人おひとりの歩みを守り、支え、静かな聖霊の炎をもって暖め、慰め、導いてくださいますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 4月22日 復活後第一主日礼拝)