たより巻頭言『「パントマイム伝道」~石居正己先生を覚えて』 大柴 譲治

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」 (1コリント1:18)

人は自らの死を意識する時、生かされている「今ここ」のかけがえのなさを知る。「兄は幼い頃から小児喘息を患っていましたから、皆が長くは生きられないと思っていました。それが82歳まで生きることができたのですから、これは大往生と言えましょう」。これは石居正己先生の葬儀後に下の弟さん(志郎氏、医師)から伺った言葉であった。病気のため小学校も二年遅れ、二歳下の上の弟さん(光夫氏、バプテスト教会牧師)と一緒の卒業となった。喘息は咳のため呼吸ができなくなるほど苦しく辛い。死の恐怖と隣り合わせである。発作が始まるとまんじりともできない中で長い夜を過ごすことになる。終わりを意識する時、意識は覚醒し研ぎ澄まされる。石居正己先生は幼い頃から死を強く意識する中で、あのように覚醒した視点から信仰の思索を粘り強く深めてゆかれたのだと納得した。先生が結核で夭折した信仰の詩人・八木重吉をよく引用されたのも、止め得ぬ咳の中で詩人と同じ思いを味わってこられたからではなかったか。キルケゴール然り。その覚醒した意識の中で先生は復活のキリストから牧師としての召しを受けられたのである。受洗は佐賀教会で20歳の時に間垣洋助牧師からであった(1948/4/25)。

石居先生の最後の著作は『ルターと死の問題~死への備えと新しいいのち』(リトン、2009)であった。ルターにおいては、罪人たる人間の死とキリストにある義人の復活は常に表裏一体である。キリストは十字架において自らの義を私たちの罪と交換してくださった。また、最後の二つ前の著作『教会とはだれか~ルターにおける教会』(リトン、2005)も最後まで具体的に教会に仕え続けた石居先生の信仰をよく表していると思う。教会とは組織でも建物でもなく、キリストを信じる聖徒の群れである。そこにおいて福音が純粋に説教され、聖礼典が福音に従って正しく執行される。3月23日(火)に京都教会での告別式で市川ルーテル学院大学学長が、石居先生がよく信徒の生活はパントマイム伝道なのだと言われていたとお話しくださった。月曜日から土曜日までは、私たちキリスト者は言葉ではなく生活を通して福音を伝道するという意味である。言い得て妙である。伺うところによると石居先生には「ディアコニア」等あと数冊の著作の予定があったという。残されたものは私たち後輩たちへの宿題となった。「あとは皆に託したのでよろしう」。あのよく響く石居先生の声が聞こえてくるように思う。

それにしても石居先生の大きな声とあのガハッと歯を見せる笑顔には実に迫力があった。それは私たちを越えたところから注がれるいのちの力を宿していた。それもまた石居先生のパントマイム伝道であったのであろう。昨秋の復刻版説教集をことのほか喜んでくださったことを思い起こす。ここに八木重吉の詩を引用してこの文を終わりとしたい。 soli deo gloria.

神の愚は人の賢きにまさる
己れを虚しうし神をひとにみせよう
自分がすきとほって背中の神を人にあらわそう

(2010年 7月号)