説教 「神さまの引かれた境界線」 大柴 譲治牧師

ルカによる福音書 16:19-31

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

境界線ということについて

本日の主題は「境界線」ということです。最初に動物の話を三ついたしますが、お聞き苦しい点があればお許しください。

エピソード (1)

最近、教会の周りの建物が新築に建て替わっています。すると、ネズミたちにとっても住みにくい世の中になってきたのでしょう。教会と牧師館に集まって会議を開くようになりました。ネズミの足音を聞きながら考えました。昨年まで私の子供たちはハムスターを飼っていました。ネズミは嫌われるがハムスターはペットとして可愛がられる。いったいその境界線はどこにあって誰が引くのでしょうか。それは人間です。そう思うと、ネズミにも何かもののあわれを感じます。その意味で、ウォルト・ディズニーは偉かったと私は思います。ミッキーマウスというキャラクターを創り出して、愛すべきネズミ像を打ち立てたからです。

エピソード (2)

今年の5月、芳賀さんから子供たちにということでカブトムシの幼虫を三匹いただきました。まるまると太った白い芋虫です。私も童心に返ったような気持ちで子供と一緒に世話をしました。すると7月中旬にはオスが二匹、メスが一匹、少し小振りでしたが立派な成虫になりました。二ヶ月ほど生きて最近その生涯を終えたようです。7月末に小淵沢でメスを一匹掴まえたのでちょうど二組のつがいとなりました。カブトムシを観察していて気づきました。カブトムシのオスは特有の角を持っていますが、メスをよく見るとどうも太ったゴキブリに似ているではありませんか。動きは異なりますが確かに形と色は似ています。それを見ながら考えました。一方はペットで他方は害虫。一体どのような基準で誰がそこに境界線を引くのか。それは私たち人間です。

エピソード (3)

アメリカに留学をしていた時のことです。「日本人はクジラを食べるな」というデモの場面がテレビニュースで映し出されていました。アメリカ人にとってクジラは食べてはならないものであるようです。文化の違いがあります。

アメリカで生活をしますとすぐに気づくのは、日本でも既に同じかもしれませんが、アメリカ人にとって犬や猫や馬はペットというよりも家族の一員だということです。名犬ラッシーならずとも、それらの動物たちは本当に親密な関係を人間と持っている。しかしウシやブタはどうかというと食肉用です。一体それはどのような基準で誰が分けているのか。それは人間なのです。

そのように考えてまいりますと、人間は境界線を引いてこちら側とあちら側を分けることが好きですが、その境界線の引き方次第でずいぶん事情が異なってくるということが分かります。

『手のひらを太陽に』

『手のひらを太陽に』(やなせたかし作詞、いずみたく作曲)という味わい深い曲があります。

1.僕らはみんな生きている。生きているから歌うんだ。
僕らはみんな生きている。生きているから悲しいんだ。
手のひらを太陽にすかしてみれば、
真っ赤に流れる僕の血しお。
ミミズだってオケラだってアメンボだって、
みんなみんな生きているんだ、友だちなんだ。

2.僕らはみんな生きている。生きているから笑うんだ。
僕らはみんな生きている。生きているから嬉しいんだ。
手のひらを太陽にすかしてみれば、
真っ赤に流れる僕の血しお。
トンボだってカエルだってミツバチだって、
みんなみんな生きているんだ、友だちなんだ。

ミミズだってオケラだってアメンボだって生きている!日常生活の中で私たち人間はずいぶん身勝手な境界線を引いているように思いますが、虫や動物たちにとっては必死で生きていることは変わりがないのです。そこには私たちの思いを越えた生命の次元がある。

金持ちとラザロの間の境界線

本日の福音書の日課は金持ちとラザロのたとえです。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16章19-21節)

金持ちとラザロの違いは決定的です。贅沢三昧な金持ちと悲惨の極みとも言うべきラザロ。前者は神の祝福を受け、後者は神に捨てられたと思われていました。両者の間には越えることのできない溝/境界線があって、人はそれを不変であるかのように考えていたことでしょう。

興味深いことに、数あるイエスさまのたとえの中でも固有名詞(アブラハムとラザロという名)が出てくるのはこれだけです。 ちなみに「ラザロ」という名前はヘブル語で「エレアザル」、つまり「神助け給う」あるいは「神に助けられた者」という意味を持つごくありふれた一般的な名前でした。貧しさと孤独と病いの中で自分の力に絶望するほかなかったラザロ。そして神の助けに寄り頼むほかなかったラザロ。文字通りそのようなラザロを神は顧み、助け給うたのです。

死ぬと彼らの立場が逆転します。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」(ルカ16章22-26節)

そこには越えることのできない「深い淵」があり「境界線」がある。しかし人間の引いた境界線と神の引かれた境界線とは異なっています。神の引かれた境界線は私たちの思いを遥かに越えている。救いの内と外を分ける境界線は内と外とが逆転しているのです。ネガフィルムのように白黒が反転している。人の思いと神の思いは異なっています。

聖書の中の境界線

聖書は常に境界線を問題としているとも言えましょう。もちろんそこでは人間が定めた境界線ではなく、神が定めた境界線が問題です。

そのことは新約聖書の三大奇跡を考えても分かります。「三大奇跡」とは、第一が神が人となられたという「受肉」の出来事。クリスマスの出来事ですね。二つ目は神が十字架の上で私たちの罪と恥とを背負って死んでくださったという「十字架」の出来事。そして第三は「復活」の出来事です。受肉、十字架、そして復活という三つの奇跡は、人間には越えることのできない境界線を神さまがご自身の側から越えてくださったという出来事であります。

受肉とは、創造主なる神が被造物なる人間になってくださったということで、「神と人との間」の境界線が突破されている。十字架とは聖なるお方、義なるお方が人間の不義を背負われたという出来事で、「義と不義の間」の境界線が突破されている。そして復活とは「死と生の間」の境界線が突破されたという出来事です。

越えることができない境界線として定められていた三つのものが神の側から突破されている。それは絶望と罪と死の中にあった私たちを救い出すためでした。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)とあるように、神は私たちを救い出すために独り子を派遣してくださった。ここに神の無限の愛がある。み子イエス・キリストは私たちを救うためにそれらを突破してくださったのです。

神さまの引かれた新しい境界線

換言すれば、主イエスは新しい境界線を設定してくださったとも言えましょう。主は言われました。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5章43-45節)。これも境界線の変更です。神の前では全被造物が神の恵みに与っていることを主は宣言している。悪人も善人もすべての人間が神の恵みの中に、救いの境界線の内側に置かれている。

別の言い方をすれば、神の愛が届かない場所はどこにもないということです。神の愛には境界線がない。たとえ(今回のテロ事件のように)どんなに悲しみや痛みが支配していても、神の愛は境界線を貫いて燦然と輝き続けている。

確かにそれは私たち人間が引く境界線とは異なっているかもしれません。神は常に恵み深く、神の豊かなあわれみに充ちた愛は実は金持ちもラザロも包んでいる。しかし金持ちはラザロに対して憐れみのかけらも示さなかった。彼は神の愛のなんたるかを全く理解していなかったからです。金持ちは気づくべきでした。「あなたは私の目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と神が金持ちに対してもラザロに対しても平等に宣言してくださっていることを。そしてそれを貫くためにその独り子を派遣してくださったことを。

ラザロと金持ちの姿を通して私たちは気づくべきなのです、あの十字架に現れた神の無限の愛と赦しを。私たちは神の一方的な恵み、無条件の愛と赦しを通して神のものとされているのです。そのことを心に刻みながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 9月30日 聖霊降臨後第17主日 礼拝説教)