説教 「人間の誤算と神の計算」 徳弘浩隆牧師

ルカによる福音書 14:25-33

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

1. 弟子の条件

エルサレムへ登る旅の途上、イエス様の後ろには大勢の群集がついてきていました。突然イエス様はみんなのほうを振り返り、「弟子の条件」について語られます。それはとても厳しい内容でした。今日の聖書の言葉は私たちの胸にどのように響いたでしょうか?

「家族さえ、自分の命さえ憎むこと。自分の十字架を背負って着いてくること」 そんな事を要求されました。群がる群集の情熱に水を差すような、ふるいにかけるような、そんな言葉にすら聞こえます。

ルカによる福音書のこの箇所は、「エルサレムに上る途上」の話。それは、「イエス様の十字架に向かう道のり、悲壮な覚悟と決意の旅路」だったのです。先頭を歩くイエス様の心の内と、その真意を悟れずにただついてゆく人々の思いとの、大きなギャップがたびたびクローズアップされます。

「まず腰を据えて」とも言われています。塔を建てるときに十分な費用があるかどうか計算する必要があるというのです。イエス・キリストに従うには、「中途半端な気持ちではなくて、一切の仕事を中断し、いろいろな興味を脇において、一つの事に集中する」、そんな姿勢を「腰を据えて」という言葉で、要求しておられます。「今までの自分を捨てて、新しい生き方に取り組むこと」そんなことを願われているのです。

キリスト者として歩む自分の人生の歩みを、見つめて見ました。

「あれもしなければならない」「あれも、こうしようと思ったまま、まだ中途半端だ。」

今日の聖書の語りかけ言葉からすると、神様との関係は、まだまだ中途半端で、自分の人生の中に、未完成の塔があちこちに立ったままでいる。そんなイメージを後悔とともに想像してしまいました。「未完の塔」が自分の人生に沢山あることに気づかされます。

こんな不完全な私たちに、厳しい言葉を投げかけるイエス・キリストの真意、そして関り方を、今日は聖書のメッセージの中から、御一緒に聞き取っていきたいと思います。

2. 未完の塔

「塔を建て始めたけれども、未完成のままでいる。見ていた人にあざけられる、あきれられる」…その代表のような物を、実は私はこの夏見てきました。スペインの、バルセロナというとしにある、有名な「サグラダ・ファミリア教会」です。スペインには是非いってみたい、この有名な教会も自分の目でいって見てみたいと、数年前から願っていましたが、この夏、行事の合間を縫って休暇を頂いて、家内と二人で計画をたてでかけてきました。そこで見聞きしたこと、考えさせられたことを、すこしお分かちさせていただきたいと思います。

この教会、実は最近、インスタントコーヒーのテレビコマーシャルでも取り上げられていて、ご覧になった方も多くいらっしゃるかもしれません。

サグラダ・ファミリア教会、聖家族贖罪聖堂と訳されますが、この教会は1882年に着工されますが、ビリャールという設計士が意見の対立から辞任、翌年から後に有名になったアントニ・ガウディーが引き継ぎます。この教会は平面図で見ると十字架の形をしていて良くある形ですが、立体的に見るととても独創的なデザインと壮大な計画で有名です。「聖誕」、「受難」、「栄光」をあらわす三つのファサードと、それぞれに4つずつの鐘塔を持ち合計12のこの塔は12使徒をあらわしています。他にマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという4人の福音書家を表す4つの鐘塔、そして聖堂の中央には、マリアとイエス様に捧げる鐘塔がそれぞれあり、合計18本の巨大な塔が立つ予定になっています。

3. 人間の誤算

しかし、120年近くたっても現在出来上がっているのは聖誕と受難の二つのファサードとそれぞれの塔が合計で8本のみ。ガウディーが生きていた頃には、まだ一つのファサードも完成せず、塔が一つ出来たのみでした。この壮大な建築、いって見ると、まだ確かに「建築中」でした。大きなクレーン数本と、聖堂のなかは聖堂というより文字通り工事現場、細長い塔の中の細い階段をぐるぐると果てしもなく登り、その高さに足が震える思いがし、降りて中に入ってようやく将来の全体像が創造できるという感じでした。登りながらたまたまいっしょに居合わせたいろんな国から来た人々のため息や、呆れ顔で顔を見合わせ、改めてびっくりする言葉が何度ももれます。若い女性が「自分が結婚して子供が大きくなったら、この教会で結婚式を挙げさせて上げられるかしら」と友達に話し掛けている言葉も聞きました…、しかし、この教会が完成するにはあと、100年かかるとも200年かかるとも言われています。

自分の足でいって見て、登ってみて、そして工事現場のおじさんたちの姿を眺めながら、「確かにこれはあと100年はかかりそうだ。大変な計画だ」と思い、あきれるより、却って尊敬してしまうような開き直りに近いものを感じました。

設計士が着工一年目に早速変更になり、その後何度も資金難から建設中断の危機に直面し…、いかにも今日のイエス様の言葉からすれば、人間の無知と誤算の代表のような教会です。そのような姿勢ではだめだというお話かと思います。大きな、実物の教訓ということになろうと思います。今日のこの聖書の箇所を読むたびに、この教会の事を思い出し、イエス・キリストに従う弟子としてのあり方を、「こうあってはならない」と思い出し、今の自分を戒める大切な「教材」とでもいえるものとしてそびえ立っていてほしいものです。

4. 責任を持つ神

しかし、この人間の誤算を、神様はばっさりと切り捨てるという方ではありません。そのことも、今日のメッセージから聞き逃さないようにしていきたいと思います。

「自分の持ち物の一切を捨てなければ、弟子ではありえない」といわれ、今日の日課の次を見れば、「そうでなければ外に投げ捨てられる」と、厳しく言われています。

沢山ついてくる群衆に、「着いてくるのは良いけれど、本当の『ついて来る』というのは、こう言うことなのだ」と、言われるイエス様。それはしかし、みんなを追い払うために言われたのではなくて、「本当に今までの罪と矛盾に満ちた生き方と決別して、神様をまず第一にする生活に変えられていくこと」を願われたのですし、そのことへの招きの言葉として受け止めていかねばなりません。「そのままの姿勢で生きていてはだめだ。その人生はどんな意味を持つのか…」、そんな愛に満ちた呼びかけなのです。

「中途半端な気持ちでついてくるな」とさえ受け取れる言葉、「今までを捨てなければあなたが捨てられる」と厳しくも聞こえる言葉です。

しかし、このときのイエス・キリストは、目の前の十字架を一人見つめておられた方。罪びとの私たちが努力しても変われない、救われないのをご存知で、その代わりになって命を投げ出し、十字架にかかると言うことを通して私たちに生まれ変わりと救いをもたらそうとしてくださっていたのです。私たちを捨てるのもなく、イエス様のほうが十字架に捨てられ、「ついてくるな」というのではなく、復活後弟子達やエマオに行く途上の弟子達にも自分のほうから現れ「ついて来てくださった」のです。

捨てる方でも、追い払う方でもなく、その大きな愛で自分の命と引き換えに、自ら捨てられ、私たちの人生についてきて、寄り添って、導いてくださる方を見つめていきたいと思います。

人間の大きな誤算、サグラダ・ファミリア教会。これも、見方によっては神のご計画と計算によって、別の事を教えてくれます。

ガウディーが63歳のとき、遂に資金難で建築中断に追い込まれそうになりました。老建築士が寄付を求め、街の家家を一軒ずつ訪ね歩いたそうです。「ええ、これくらいの寄付ならなんともありません。最近景気がいいものですから」……、そういう人がいると、ガウディーはこう答えたそうです。「なら、あなたが本当に困ってしまうだけのお金を下さい。それが献金というものです。生きることは愛するということ、愛は犠牲で成り立つ。ある家に生き生きとした生活があれば、それは、その家族の誰かが犠牲を払っているからです。犠牲こそ愛の証なのです」と。

聖家族贖罪教会、人々の献金のみで建てられている教会。それは時間がかかるけれども、何度も中断の危機に立たされるけれども、人々の思いと、愛の犠牲が積み重なった分だけ、完成に近づいていくのでしょう。そこを訪れてみてそんな事を知らされました。

私たちの人生の中で、遣り掛けだったり、神様に願い・誓ったままでやり残したままの様なこと、そんな自分の人生にあちこちの立っている未刊の塔、それらを集めてそびえ立っているかのような巨大な塔でした。

人間の誤算が作り上げ、残してしまった大きな見本ですけれども、神様はこれを通してすら、ここを訪れる人々にそんな事を教えてくださっているように思えます。

そして、我々の人生の中の誤算をもきっと神様はその後計画の中で、よき方向へと導いてくださいます。

私たちの教会も、すでに完成されたものではありません。私たちの手で、私たちの思いで、ともに作られていく共同体。これが教会そのものです。建物としての教会ではなく、そんな生き方、そしてそれらが集められた共同体としての教会、それを実は私たちも長い年月をかけて、建築している最中なのかもしれません。

今日のイエス様の言葉を、愛に満ちた力強い呼びかけ、招きの言葉として受け止めてまいりましょう。

そして、この私たちの教会も教会のビジョンをともに語り合っている最中ですし、全国のルーテル教会も新しい時代の方策を作成中です。みなの祈りと思いで、まだまだ長い年月をかけてかもしれませんが、より良いものに作り上げていきましょう。

この週、皆様の上に大きな祝福がありますように。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 9月 9日 聖霊降臨後第14主日 礼拝説教)

なお、説教者の徳弘浩隆牧師は、現在はむさしの教会員で、日本福音ルーテル教会宣教室長・広報室長を務めておられます。