説教「急いで行こう、歓喜の鼓動を分かち合うために」 石田 順朗

                    テキスト:ルカ1:46−55
武蔵野教会・降臨主日(待降節第四)礼拝、2013/12/22
石田 順朗

はじめに 12月の季語「古暦(これき)」は、新しい年を迎えれば忘れ去られる。幸い『教会暦』では、ほぼ一月早く新年に当る「待降節」に入り、暦の上での「新・旧」の節目になり、『教会手帳』では、一月ほど新旧の暦が重なる。救い主イエスのご降誕を待望しつつ、紫の典礼色が示す「瞑想、備え」の時期に入って4週目。今朝、私たちは、いよいよイエス・キリストのご誕生を祝う直前の降臨主日礼拝に集う。

この一年を振返ってまず気づくことは、歳の暮「師走」の月を待たず、一年中ずっと師走だったように思える。年末の月が「師走」と呼ばれる由来は、平安の昔から「僧侶が仏事で走り回る忙しさ」を見て、言語学的推測ながら、「年果てる」や「し果つ」から「しわす」に変化したもの。とかく慌ただしい。原発ゼロや再稼働論争を傍目に、全国、イルミに浮き立つクリスマス・セール、おせち料理の予約、「歳末助け合い運動」等で賑やか。

回顧すれば、昨年の「師走」から始まった大雪[豪雪]では96名の死傷者をだし、世界各地でも異常気象の年明け。エルサレムでは1月早々に20センチの雪が積もり、オーストラリアでは全土で記録的な猛暑となり元日からの8日間は記録的な暑さで平均気温が40度と、前例のない気温に備えて地図の色分けを施したほど。それに山火事が収まらない危機に襲われた。高知県四万十市で41.0°Cの国内最高気温を更新、各地で記録的な猛暑となり、木本昌秀東大教授の表現では「最高気温の記録更新ラッシュ・イアー」だった。

加えて、7月末に山口と島根県、8月には秋田や岩手、島根県で記録的豪雨。10月の伊豆 大島町で発生した台風26号の「ゲリラ豪雨」による「土石流」の災害など、この1年は「直ちに生命を守る行動をとるよう、最大級の警戒を!」と気象庁から「警報を待たず、早く逃げなさい!」の警告頻発。師走どころか「早く走れ、走れ」の連続。『特別警報パンフ』も公表され、その背景に、宮城県南三陸町で防災無線にかじりついて「早く高台に逃げてください」と叫び続けながら殉職された遠藤さんの声によって多くの人命が救われた謂れがあると聞く。「これまでに経験したことのないような」という最大級の形容詞、副詞も、つい一月前、フィリッピン暴風の津波級の7mを超える高波の被害に、遂に「常識を覆すような」の表現。これまでの「想定外」から「常識(Commonn Sense)を覆す」に変った!「お互いに共有する感覚、感情、思い」がひっくり返された!

ところで、(J. S. バッハの『復活オラトリオ』にもある)「来れ、急げ、走れ」は、旧・新約聖書に164回も出てくる。新約には18回、そのうちルカだけでも、今朝のテキストの序説「マリア、エリザベトを訪ねる」で「そのころ、マリアは出かけて、急いで 山里に向かい、ユダの町に行った」を始め、少なくとも4回は用いられている。本主日の特別礼拝のテーマ「マリアの賛歌」を唱える前に、まず「急いで出かけるマリア」を見届けたい。マリアも、野宿していた羊飼いたちも、いちじく桑の木によじ上っていたザアカイも、イエスが甦られた朝、女性たちの知らせを受けたペトロや、エマオへの途上で復活のイエスにま見えた二人の弟子たちも「常識を覆すような出来事」に応じて、「急いで出かけた」。

 
1. 「急いで出かけるマリア」
1)まず、二人の女性が登場する「常識を覆すような」出来事。名門、祭司アロン家の出身でありながら「恥ずべき不妊症」の老女、ザカリアの妻エリザベトは、洗礼者ヨハネを身ごもって5ヶ月。その親戚で従姉妹にあたるガリラヤの一寒村ナザレに住むマリアは婚前妊娠の身。不義姦通として世間に知らされれば「石打ちの刑」(申命記22・23)。しかもその妊娠初期のマリアが一人で出かけ「急いでガリラヤからユダへの山里へ向かった」 のは、常識を逸する行動。(尤も今日の先端再生医学からすれば「常識を覆すような出来事」ではないかもしれない。それに、「でき婚」「おめでた婚」「授かり婚」「婚外子」などと云われる最近では、殊更 醜聞とはならない。その反面、「マタ・ハラ」もある)。

それでも「常識を覆すような出来事」。ザカリアとエリサベト夫妻の住む「ユダの町」とはどこなのか詳細は不明。ただザカリアはエルサレム神殿の祭司で、町の近くに住んでいたことは事実。ガリラヤのナザレからユダのエルサレムの近くまでというのは、かなりの距離。急いでも数日はかかり、当時の一人旅には危険がつきまとった。しかもマリアは十代中ばの女性で妊娠初期。それでも、マリアは「急いで」出かけた。

2)なぜ、マリアは、常識を覆す「師走」の行動 –「出かけて、急いで山里へ向かった」のか? そもそも 彼女の決意を支えたのは天使ガブリエルの知らせ。年老いて身ごもり五ヶ月となった叔母のエリサベトを訪ね、同様に身重となったわが身の「思いを分かち合う」ためだった。実は「急いで、難を逃れて命からがら生き延びるため」ではなく、お互いに新しい命の息吹、胎動を分かち合う、神から授かった「常識」に従ってのこと。マリアが「ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子が喜んでおどった」。これだ!同じ「急ぐ」ことでも「新しい生命の鼓動」をお互いに「体内」で分かち合うためだった。

II.「踊る」という言葉が2回もでてくる。「おどり」はどの宗教にもある。踊りの起源は中世の「念仏踊り」や平安時代に始まり鎌倉時代には全国に広がったと云われる「盆踊り」。神道で、平安中期にその様式が完成した「神楽」は、祭りにおいて神に奉納するために行なわれる「歌舞」。戦後、山口県で、三代目北村サヨで広まった「踊る宗教」さえあった。
キリスト教での「おどり」は、救い主に対する「喜び」を表す。旧約では「神と人間との深い関係のしるし」として、モ−セに与えられた神の掟「十戒」を刻んだ石板を収めた「契約の箱」が、オベデエドムの家に三ヶ月留まった時のこと、彼と家族は主から祝福され、また、ダビデ王がその箱の前で「喜び踊った」という故事がある(サムエル下6:11、16)。おそらく、ルカは、マリアを「契約の箱」と考え、エリサベツとその胎内の子の「胎動」を喜び合うことが「神のお約束」を身ごもる実感から生まれ出てきたものと理解される。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう!」

さすがエリザベトも応じた。「わが主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」。マリアの胎内の子が「主イエス」であると彼女は知っていた。しかも、自分が生む子ヨハネが「主に先立って行き、準備のできた民を主のために用意する者」になるという夫 ザカリアへの天使のお告げに思いを巡らせていた。

「おどり」は踊りでも、体内での「踊り」だった(女性だけに与えられた特権)。
そこで、マリアは、この躍動する胎内の踊りに共鳴するように、賛美歌を歌い出した。
それぞれ「胎内の子が 喜びおどっている」二人の女性の「出会い」のなかで歌われたこの讃歌は「神共にいます」へのエコー。例年「師走」には、ベートベンの『第9』や、ヘンデルの『メサイヤ』など良い音楽が響き渡る。聖書にも、いろいろ美しい讃美歌が現れる:旧約の「詩編」はもとより、新約ではとくにルカに、イエスの降誕をテーマにした数篇の讃歌がある;今朝のテキスト『マリアの賛歌』(始めの「(主を)あがめ」のラテン語訳 “magnifico” magnify)から『ザカリアの預言』(「ベネディクトゥス」“ほめたたえよ”)(1:67〜79)、『シメオンの心』(「ヌンク・ディミティス」“主よ、今こそ、出かけます(行ってまいります)”)(2:28〜32)など。 ルターも1521年、その講解を著した「マグニフィカト」とも呼ばれるこの賛詠は、既に旧約のイザヤ、詩編などから構成され、サムエルの母 ハンナが、成人式に「主に願って得た子供なので」祈りながら唱えた『ハンナの祈り』(サムエル記上2:1〜10)をモデルにしたと伝わるもので、ユダヤ教にあったものをユダヤ人キリスト教徒が採用したもの。「卑しい者は引き上げられる」のテーマで「マリアの讃歌」として原始教団で唱えられていたものを、『ルカ』がイエス生誕物語の中に編み込んだ。それに「マグニフィカト」は字義的には「大きくする」ということで、「自分を小さくして、主を大きくする」それが「主をあがめる」ことだと強調。

 
III.「目を留めてくださる」ここで、ルカが特に挿入したと考えられる、48 節の「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」に注目したい。今日の「負け組」「希望格差社会」への福音。たとい「身分が低くても、負け組でも」「幸い」でありうる。五ヶ月もの間 身を隠していたエリザベトも夫ザカリアに「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と歌わせる。

1)インターネット、E-メール、ケータイ、スマホと「目にも留まらぬ早いテンポの生活」。「ファストフード文化」の便利な生活で、逆に「ゆとり喪失」。自己閉塞、喪失で、「見放された」「目にも懸からない」私を なお「顧みる神」、「心にかける」−「こだわる」「細心の配慮をなさる神」(「羊一匹を探し求める」ルカ15)。

2)「幸いなもの」になるかどうかは、たまたま運がよかったとか、富み財産や地位や、美貌に恵まれたからではない。「神の働きかけ」、私たちそれぞれに与えられる「神のご計画」を身体一杯にうけいれ、身体の内奥で、「喜びおどる」こと。それこそ「生きる胎動」を感じ、それが毎日の生活にリズム化する鼓動となっていくことに気付くかどうかで、決まって行く。「神の目に留まった人」に備わる「幸い」は、マリアだけでなく、人々すべてに及ぶ(サムエル上2:7〜8参照) 私は幸いです!

園山 京くん(ご家族の方々)、石原真由美さん、姫野智子さん、幸福度はいかが?

「急いで、ここに集ったこと、ほんとうに佳かった!!」クリスマスおめでとう!

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主がみ顔を向けて、あなたを照らし、
あなたに霊を与えられるように。主が、み顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」 アーメン