説教「仕えるために」 伊藤 早奈牧師

マルコ 10:32-45

祈り

天の神様、今朝もこのように私たち一人一人があなたによって、この礼拝へと招かれ、あなたを賛美し共に祈ることが許されましたことを感謝いたします。あなたによって与えられた今があることを、そして今ある出会いの中でみ言葉に聴くことを許されましたを感謝いたします。これから語られますあなたからのみ言葉、この語る者を通し、ここにおられるお一人お一人へと、神様あなたがお語りください。

仕えるために

今日、皆様とご一緒にお読みいたしました聖書の箇所の中の10章45節においてイエス様は弟子たちに言われます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

弟子たちへ語られた言葉は、主イエスと共に歩き、共に旅をしていた弟子たちへだけ語られた言葉なのでしょうか?

今を生きて、現在この聖書のみ言葉から聴いている私たちには何も関係もなく、何も語られていないのでしょうか?

聖書のみ言葉は生きています。私たちが生きているこの時代のただ中においても主からのみ言葉は生きて働いておられます。だから私たちは聖書のみ言葉から今このときに聴くことができるのです。

今、私たちは四旬節という季節を迎え、一人一人が心を、十字架へと一歩一歩向かう主イエスへと向けています。

いったい何のために。どうして。

今という現代に生きている私たちには関係のない昔のことなのに。といろいろな思いの中におられる方も少なくないでしょう。

聖書において主イエスが言われる「人に仕える」とはどういうことなのでしょうか?人に仕えられるためにではなく仕えるために来た。という主イエスはいったいどのような方だったのでしょうか?

聖書のみ言葉から聴いていきたいと思います。

私たち一人一人のために、ご自分の命を身代金として、ささげられるのは主イエスその方お一人しかいません。

身代金?と突然言われても、私たちにはピンとこないかもしれません。身代金とは罪の束縛から私たちを解放してくださるあがない品ということです。何が私たちを束縛している罪なのか。

聖書において、主は進まれています。それはエルサレムへと向かう道です。エルサレムへ向かう道それは十字架へと向かう道に他なりませんでした。イエス様を慕うたくさんの人が一緒でした。その中にはイエス様が選ばれた弟子の十二人も含まれてました。その途中、イエス様はその一行の先頭に立って行かれます。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れます。

今までイエス様はどこにおられたのでしょうか。そんな疑問もおかまいなく十字架へと向かうその先を示されるかのように主イエスは先に立ちます。

先に何があるのか、どこへ進むのか。今を生きている私たちにもわかりません。

わからないことに対して私たちは恐れるだけです。予想もしない事態に私たちは、ただただ驚くだけです。何かわからないものへの不安、恐れ。明日何が起こるだろうか。これからどうなっていくのだろうか。

そのような不安や恐れに縛られ、与えられている「今」というこの瞬間さえも生きることを忘れてしまうのです。

命が与えられていることを恨むようなこと、それは神様から離れることです。神様から離れること、そのことは罪と言われるものではないでしょうか。

人に暴力を振ったり、他人の命を傷つけたり、法律を犯すようなことも罪の一つです。しかし私たちが神様から離れてしまうこと、例えば不安や恐れでいっぱいになってそれらのことに縛られてしまったり、自分自身を無視してしまったり。

小さなことと思えるようなことでも、私たちが神様を忘れ孤独や恐れ、不安に包まれ何も見えなくなってしまうとき、それは神様から離れること、つまり罪という束縛に縛られるときなのです。

そのような状態にあったとしても私たち一人一人の先頭には主イエスがおられます。そして、主イエスの進まれる方向はただ一つなのです。それは命である神へなのです。

勝手に主イエスは行ってしまうのではなく、一人一人と共に歩かれるのです。確かに、私たちが向かう命の道を示すために主イエスは先頭を行かれるのです。その道を私が進むことは、どんなことが起ころうとしているかを主イエスはご存じなのです。ご存じである主イエスが共に歩まれるのです。

私たちのためにご自分の命をもささげられる方はどういう方なのでしょうか。

主イエスは言われます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、来た。」と。

主イエスは来られます。私たちが生きている今というただ中へ。

お参りに来なさいと言われるのではなく、主イエスの方から私たちのこの隣へ来て下さるのです。

そして、その主イエスが、私たち一人一人に仕えてくださるのです。

仕えるとはどういうことなのでしょうか。

「仕える」という言葉には「もてなす」と言う意味もあります。そして食事の準備をするという意味もあります。

人をもてなすとき、私たちはもてなす相手が喜ぶ最高のサービスを提供しようとします。相手を喜ばす以上に相手が喜ぶのが、自分にとっても嬉しいこととなるのです。そして、もてなす相手を何よりも一番信頼して自分の家に、そして心に迎え入れるのです。主イエスも同じなのです。一人一人を信頼して迎えられるのです。

人を信じるということを、私に教えてくれたドラマの台詞があります。見た方も少なくないと思いますが、この前の金曜日の夜、放送された,全盲聾の方福島智さんが奥様に言われた言葉です。

「君が何かができるから、ぼくは君に傍にいてほしいんじゃない、君の存在がぼくにとって重要なんだ。」

主イエスも一人一人に言われています。

「あなたの存在が私にとって大切です。そのようなあなたのところへ私は仕えるために来た。」

イザヤ書53:1-12

最後にイザヤ書53章1-12節をお読みいたします。

(1)わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
(2)乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
(3)彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
(4)彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
(5)彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(6)わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
(7)苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
(8)捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
(9)彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
(10)病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

(11)彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
(12)それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

(2006年3月12日 四旬節第二主日礼拝説教)