「 三本の十字架 」伊藤節彦

ゼカ9:9~10、フィリ2:6~11、ルカ23:32~43

『23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』

私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン

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主のご受難を心に刻み直す期節である四旬節では、「放蕩息子の譬え」や「ぶどう園と農夫の譬え」でお分かりのように、「悔い改め」を一貫したテーマとして取り上げて参りました。そして今日の受難主日を、武蔵野教会の皆様と何を分かち合おうかと考えました際に与えられましたのが、正に死の直前で行われた悔い改めの出来事、主イエスが十字架上で語られた七つの言葉の一つである、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というみ言葉でありました。ですから今日はこのみ言葉を中心に、ご一緒に福音を聴いて参りたい、そう願っています。

私たちは主イエスの十字架を思う時、ただ一本の十字架だけを思い浮かべないでしょうか。しかし、主イエスは十字架につけられた時、お一人ではありませんでした。二人の犯罪人も一緒にいたのです。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というお言葉は、そのうちの一人に対して語られたものでした。主ご自身だけでなく、この二人の男達にとっても死は目前に迫っていました。確実に死に至るその途上で、主は十字架を対話の場として下さった。このことは、私たちが心に刻むほどに覚えておいてよい祝福であります。この言葉を記しているのはルカだけです。ルカはこの祝福を私たち読者に伝えたくて、マタイもマルコも記さなかった十字架上での対話を詳しく書き残してくれたのだと思うのです。

ある説教者は、主イエスが真ん中に、そして左右に一本ずつ立てられたこの三本の十字架、ここに最初の教会が誕生したと語っています。私はこの言葉を読んだ時に最初「えっ?」と思いました。教会の誕生は主イエスが復活したその後の聖霊降臨日ではないだろうか。もしくは、もっと遡るのであれば、十二人の弟子たちを呼び集められた時に教会の基が作られたのではないか、そう考えていたからです。ですから、弟子たちを差し置いて、まさかこの犯罪人達が教会の最初のメンバーだとは全く思いもよらない発想だったのです。

しかし、この説教者は、主イエスとともに十字架につけられ、死につつある犯罪人たちの姿の中に最初の教会の姿が見えると語るのです。その理由は、この罪人たちは十字架に釘付けされている。ペトロ達のように逃げるわけにはいかない。自分たちから主イエスとのつながりを捨てることが出来ない場所に置かれている。しかも主と共有しているのは十字架に他ならない。そこに教会の特質が見えるというのです。死に直面して、イエスと結びつけられている罪人の群れ。ここに教会があるというのです。

そういう意味で、まさに死ぬ瞬間において、主イエスと対話することが出来たこの男のこと、また、死ぬ瞬間においてこの男を生かした主のお言葉を思い起こすことは、私たちキリスト者にとっての最大の慰めではないでしょうか。

いや、思い起こすだけでない。教会とは礼拝において、この主イエスとの対話を常に新しく繰り返すことによって、希望を失うことなく力を与えられてきたのであります。

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ところで、先ほど読んで頂いた福音書には、三度、主イエスが嘲られたことが記されています。最初は民衆と議員達によるもの。次にローマの兵士たち、最後が十字架に共につけられた罪人の一人が語ったものでした。彼らが異口同音に語ったのは「メシアならば、自分を救ってみよ」という言葉でした。しかし、最後の罪人だけは少し違いました。この男は共に十字架につけられながら「自分自身と我々をも救ってみよ」と罵ったのであります。

十字架上の主イエスを罵る。それは信仰もない犯罪人だから出来ることで、私たちキリスト者と関係はない。もしかしたら、そのように私たちは考えていないでしょうか?

しかし本当にそうだろうか。案外、私たちはこの男と近いのではないでしょうか。私たちは、自分が困難の中に置かれた時、主イエスに向かって、今こそ御力を発揮して下さい、あなたが救い主であることをお示し下さい。そして私のこの困難を取り去って下さい、そう祈りはしないでしょうか。

また私たちは、自分一人の心の問題だけでなく、現代の様々な課題である、戦争、無差別殺人、原子力、大規模災害といった深刻な神義論を引き起こさざるを得ない時代を生きています。神義論とは、もし神が正しいお方ならばこのようなことは起きない、と人間が神を裁き糾弾する問いであります。この議論は「もし神が本当にいるならば」という悪魔の囁きが私たちの心の不安を煽るように生まれてきます。

主を罵ったこの男と同じように、私たちも主イエスに訴えているのではないでしょうか。なぜ、あなたはそれほど無力なのですか。どうしていつまでも黙っておられるのですか。どうしてこの世の悪をあなたは見過ごしにされているのですか。あなたが本当に私たちにとっての救い主なのでしたら早く私たちの所へ来て下さい。そして私たちに幸いと平安を、あなたが約束された救いをお与え下さいと。罵らなくても、私たちはそのような思いで日々を生きているのではないでしょうか。

しかし、聖書はそのような問いに対して、悪、苦難、試練を取り除くという奇跡においてではなく、ただ神の子の十字架だけを指し示すのです。それが、聖金曜日の出来事なのです。

人間の神義論はイエスの十字架の中に神を見いだすことが出来ませんでした。しかし、復活という出来事において確かに神様はその中に働いておられたのです。この復活の光に出会うためには、私たちは全き闇に覆われた土曜日を過ごさなければなりません。そしてルターはそれを「信仰の闇」と呼びました。

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イエスを罵ったこの罪人と私たちはどこが違っているのでしょうか。それは、この男が主イエスに呼びかけていながら、しかし彼はなお絶望のどん底にいるということです。主イエスに期待しているようで全く期待していない。主イエスにさえ絶望してしまっているということです。救い主の傍らにいながら、救いを見ることが出来ない、信じることが出来ない闇の中にいるのです。

ところで、この男の言葉に応えたのは、主イエスではなく、もう一人の罪人の仲間でした。40~41節には「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」。

 一人には見えていて、もう一人には見えていなかったこと。

それは主イエスの十字架の前で、自分の罪に気づいた者とそうでない者の違いです。「この方は何も悪いことをしていない」という箇所は、「この方は本来おられる場所でない所におられる」と訳せる文章です。ですから言い換えるならば、この罪人は次のように語ったのです。「私たちは自分たちの罪の故に本来いるべき場所に今立っている。しかしこのお方は本来おられる場所でない所におられる」、と。

使徒書日課で読まれたフィリピ書2:6~8には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」という讃美の言葉が述べられていましたが、その讃美の言葉が、既にここで響いている。私たちも主の十字架の御許で聴くことが出来るといってよいのです。

私は冒頭で、「主イエスは十字架につけられた時、お一人ではありませんでした。二人の犯罪人も一緒にいたのです」と述べました。しかし、正確には「二人の犯罪人が十字架につけられた時、主イエスも共に十字架につけられて下さった」のです。

更に驚くべきことに、この罪人は42節で次のように語るのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。この箇所は次のようにも訳せます。「イエスよ、あなたが王としての権威をもって再び来られる時、もしできるならば私のことを思い出して下さい」。

この男は目が開かれたのです。自分が裁かれているのはユダヤやローマの権力によってではない。今、神の裁きを受けているのだということを。そして、この裁きはここで、死によって終わるものではないことをも、彼は知らされたのです。あなたこそ真実の王であられる。そしてその権威は死に対しても変わることはない、死さえも支配される王なのだと。その時に、自分のようなものは滅びにしか値しないことは分かっている。しかし尚、私はただあなたの憐れみにのみすがって願わざるを得ない。どうぞ私を思い出して下さい。そう願う希望を、死を突き抜けて再び命の主が来られるという復活の希望を、この男は持つことが出来たのであります。

ある人は、「信仰とは死に直面して死を受け入れることが出来るかどうか」であると語りました。死を受け入れるとはどういうことか、それは死を越えたところに救いが見えるかどうかということです。私たちの願いも、突き詰めればこの祈りに結実しなければならないのです。私たちはどこかで、この犯罪人とは違うと考えるかも知れません。しかし、神の御前においては何の違いもない。私たちが神の御前に願えることは、神の乞食として憐れみをただ願うことだけであります。

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そして、いよいよ私たちは43節のみ言葉を聴くのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「はっきり言っておく」と訳されているのは原語では「アーメン」です。主イエスが大切な真理を告げる時に用いられる言葉です。ここで主イエスは大切な真理を語ろうとされている。それは正に死ぬ直前の、人生でこれ以上にないほどの苦しみと暗さの中で語られる命の言葉であります。

しかし、このみ言葉は最後の最後に悔い改めをすることが出来たこの一方の男だけに語られた言葉なのでしょうか? そうだとするならば、この男の悔い改めこそが、主イエスのみ言葉を引き出したのでしょうか?

そうではないのです。34節で主イエスが語られた、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りは、主に憐れみを請うた男と、主を罵った男の両方を包んでいます。言うなれば、この二人の犯罪人の姿は、救いを拒みつつ、救いを求めようとする、私たちの中にあるアンヴィバレントな二面性を象徴しているのかもしれません。

罵った方の男は主イエスに「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみよ」と語りました。この男は半ば自暴自棄でありました。自分の過去を振り返りながら、取り返しのつかない罪の中を歩き続けた自分にほとほと愛想が尽きていたことでしょう。しかし、そのような自分になお愛想を尽かさない方がおられるのです。おられるべきでないその場所に一緒に立って下さるお方がいるのです。

この十字架の上での対話の中に、教会の救いが、そして私たちの救いが示されている。そして主イエスはその救いの出来事は「今日」起きるのだと語るのです。遠い将来のことでも死後のことでもなく、み言葉に信頼する「今、ここで」起きる神の出来事だと語るのです。

私たちは誰もが逃れることの出来ない死への道を歩むものであります。しかし、そのような私たちに、み言葉は死を越えた命が、来るべき主のご支配が確かであるという約束と平安を与えて下さるのです。

私たちがどのような困難や苦しみの中にあっても、神様を呪うような言葉を吐いてさえも、しかし、その私の傍らに主イエスは共にいて下さるのです。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。このお方こそ私たちの救い主、インマヌエルの主なのであります。

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人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2013/03/24  むさしのルーテル教会 棕櫚主日礼拝