三浦しおん著 『舟を編む』        川上 範夫


題名を見て目に浮かぶのは、未開地の部族が葦の茎で小舟を編む光景である。だが、本書はこれと全く異なり国語辞書編纂の話なのである。(2012年度「本屋大賞」受賞)

さて、どこの家にも国語辞書の一冊ぐらいはあるものだが、私達はこれが作られる過程については何も知らない。著者はこのように身近だが人には関心を持たない分野に陽を当て私達の目を開いてくれる。

話は大手出版社で国語辞書の編集一筋に生きてきた社員荒木の定年に当たり、後任者として馬締という若手社員を選ぶところから始まる。話に登場する人物は多くはない。定年の荒木、編集部の主任となる馬締、彼と同期の西岡、辞書の監修責任者で国語学者の松本先生である。

だが、原稿執筆者には専門分野ごとに大学教授が担当、その数は50名をこえ辞書に関わる人材の層は厚い。このような人々の総合力によって23万語の辞書『大渡海』の編集が進行してゆくのである。

併しその過程ではさまざまな問題が起こる。会社上層部の辞書出版に対する批判、人手不足、編集部に対する大学教授の非協力等々である。

一方、編集部自体のミスも起こる。編集の最終段階に入って「血潮」の文字が校正刷りから抜けていることが判り大問題となる。細かい説明は省略するが、要は一文字の欠落のために四校まで進行している23万語の全てを再チェックすることとなる。主任の馬締は近くに下宿屋を借り、若手社員、学生アルバイトらを総動員一か月に亘って泊まり込み、作業に当たる。ここで示された馬締のリーダーシップは彼らを動かし、この難問を乗り切っていくシーンは圧巻である。又、製紙会社の技術者によって辞書のため究極の紙が出現する経過も興味深い。

薄暗い出版社の一室で進められる辞書編集という地味な仕事にも拘らず、それが出来上がってゆく経過に私は探検小説を読むような興奮を覚える。馬締と女性(板前)との結婚エピソードもあるが、辞書の完成を目前にして監修責任者の松本先生が病に倒れ他界され、その葬儀の夜、馬締は下宿に戻り一人で嗚咽する場面には胸を打たれる。

最終章は発刊記念祝賀会のシーンとなる。23万語、2,900頁の国語辞書『大渡海』は企画から15年を経て世に送り出されることとなった。

長い困難な道程を乗り越えてきた人々の情熱に私は熱くなった。

「辞書は言葉の海を渡る舟だ。我々は海を渡るにふさわしい舟を編むのだ」といった松本先生の言葉があらためて胸に響いた。

むさしのだより 2013年3月