『小川修パウロ書簡講義録2 ローマ書講義Ⅱ』 江口再起

福音の真髄に迫る / 小川修パウロ書簡講義録刊行会編

希有な書である。温かく感動的な、また厳しく求道的な書物として、希有である。感動的なという意味は、著者小川修氏に学んだ四人の現役の牧師が故人となった氏の講義を手作りでテープ起こしし、書物として刊行した点である。求道的なという意味は、ローマ書研究を通してなんとか福音の真髄をつかまんとする著者のその求道的な迫力に関してである。

本書は小川修氏が二〇〇七年〜二〇一〇年にかけて同志社大学神学部大学院で行った講義のきわめて忠実な記録である。以前、ルーテル神学大学で小川氏からパウロやバルトを学び、その後も師弟の交わりを続けてきた四人の牧師が、氏の講義の肉声を、口調や黒板をたたく音までもまるで実況中継のように再現し文字化した。本書はその第二巻でローマ書の四章〜八章が扱われている(一章〜三章の第一巻は昨年八月に既刊)。

さて、内容である。まず第一に指摘すべきは著者の聖書そのもの、ギリシア語原典そのものへの肉迫、精読である。精読、また精読である。

その結果、小川氏はローマ書から何を聴きとったか。小川氏の求道と思索の背景には、氏のカール・バルト、そして滝沢克巳への学びがある。その点を考慮しつつ小川神学のポイントを私なりに整理しよう。

⑴滝沢克巳はバルトから、人間存在成立のそもそもの根底に神と人との原関係が厳存する、ということを学んだ(これはキリスト者であろうがなかろうが、罪人であろうがなかろうが、万人に等しく厳存する)。

⑵滝沢はかかる神と人との原関係をインマヌエル(神、我らと共にあり)と表現した。滝沢インマヌエル神学である。滝沢は神と人とのこの原関係を、西田幾多郎の哲学用語「絶対矛盾的自己同一」を援用しつつより正確に表現し、神と人との関係を「不可分・不可同・不可逆」であると定式化した。

⑶小川修は、バルト=滝沢のかかる神と人との原関係を、人とキリスト(基督)がひとつである「人基一体」と言いかえている。そして滝沢がこのインマヌエルの原関係を『聖書を読む マタイ福音書講解』(創言社)で説いたように小川は本書『パウロ書簡講義録 ローマ書講義』でこの「人基一体」を説く。そして、これこそがパウロが語らんとした福音の真髄である、と言う。

⑷かかる「人基一体」がローマ書ではどのように展開されているのか。小川は一章十七節に注目する。「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる(エック ピステオース エイス ピスティン)」(口語訳)である。そして、この「ピスティス」という言葉がキーワードとなる。

⑸このピスティスというギリシア語をどのように理解すべきか。ふつう「信仰」と訳されるが、この言葉には実は二様の意味がある。➀まこと(誠実・真実)➁信仰である。

⑹そこで小川は「エック ピステオース エイス ピスティン」を、「(神の)まことから(人の)信仰へ」と理解すべきだと解釈する。もちろん、「(神の)まこと」とは、あの「人基一体」の原関係のことである。つまり、パウロが言いたいことは、神が人間を創り守り救うという「(神の)まこと」がまず第一に厳存するがゆえに、その気づき・応答として「(人の)信仰」が生起するのだ、これこそが神のよき音づれ、つまり福音なのである。

 

以上、小川氏の思索のポイントを整理してみたが、「神のまこと」が人を義とする(義認・救済)のであって、「人の信仰」が人間を救うのではないということである。つまり「信仰によって救われる」という表現はあまりにアイマイで誤解されやすい。人が救われるのは、言うまでもなく「神の恵み(まこと)」によるからである。(ルターがいう「信仰義認」もそういうことであって、詳述できないが、それゆえルターは「受動的な神の義」という言い方をしたのである)。

ともあれ小川氏は聖書に肉迫する、パウロの語る福音に肉迫する、「神のまこと」に肉迫する。本書はまさに求道の書であり、それゆえ、本当の意味でまさに神学書である。

(えぐち さいき 東京女子大学教授)