五木寛之著『親鸞 激動編 上・下』   廣幸 朝子

確かに『激動編』というタイトルであるけれどこんなにハチャメチャな騒動が繰り広げられるとは思いもよらなかった。「007」「インデイ・ジョーンズ」顔負けの騒ぎである。比叡山をはなれた親鸞の人気が一般大衆のなかに次第に大きくなっていくと、権威と利権を脅かされることをおそれる既存の勢力は、なんとか親鸞を陥れようと様々に悪巧みをめぐらす。絶体絶命、親鸞あわや、というところで、突然超人的な武力をもった味方が現れて、親鸞は事なきを得る。一度や二度ならハラハラドキドキもするけれど三度四度と繰り返されると、なんだか笑えてくる。親鸞が越後に流され笠間に移るまでの時代の話である。

社会保障は無論、法の保護が何もない時代の庶民の生活は悲惨であり、死後さえも寄進や修業しないものは地獄に落ちると脅され、まさに生きるも地獄、死ぬも地獄。この人々をどうやったら救えるのか、親鸞は必死であった。

権威を守ろうとする既存の勢力との戦いは、パリサイ派とイエスさまの対立を思わせる。相手のワナと知りつつ死地に向って行く親鸞は、「捨身」という言葉を使って、自分がそこにいくこと、あるいはそこで死ぬことによって伝えられることがある、という。これは十字架に向うイエスさまと同じ覚悟であろう。また「南無阿弥陀仏」という言葉は仏様への哀訴、祈願の言葉ではなく、この身のままで仏様に救われているとさとったときの応答であるという。これは我々のアーメンと同じではないか。あまりに短絡な我田引水かと自分でも思うが、キリスト教づけの毎日をおくっているとこんな読み方になってしまう。この本は賀来先生のお勧めであった。先生にお話を聞く機会がなかったのが残念デス。

(むさしの教会だより 2012年7月号)