説教 「本当の安息とは」 大柴 譲治

マルコによる福音書 2:23ー28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「本当の安息」とは

「安息」という日本語はなかなか意味深長で「安らかな息」と書きます。そのような安息の時や場が私たちの日常生活にはどうしても必要です。しかしそれが見出せず、自分を失ってしまうということがしばしば起こる。

本日は主が与えてくださる本当の安息とは何かということに焦点を当てながら、み言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。

「自分で自分をほめてあげたい」

先日、箱根で開かれた東教区の常議員会でのことです。田園調布教会の杉本洋一先生が「自分を自分でほめてあげたい」と言われました。その言葉に私はハッと小さな驚きを覚え、そしてホッとしました。

「自分で自分をほめてあげたい」。暖かい響きをもった言葉です。教会に来る方はまじめな方が多く、どちらかというと自分の罪や弱さにばかり眼が行ってしまうことが多いようです。だから、なかなか自分で自分をほめることができずに深刻になって苦しんでしまう。そのような中で杉本先生の言葉はとても新鮮でユーモラスに響く言葉でもあります。そうか!自分で自分をほめてもいいんだ。そう思うと私も気持ちがホッと楽になりました。これこそ「安息」、「安らかな息」ということではないかと思います。

風を感じるために

先日の飯能集会で「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)というみ言葉が話題になりました。ニコデモ同様、私たちも自分の中に「律法主義」といったものを持っていますが、そこからどうすれば解放されるのかという話になったのです。

「風は思いのままに吹く」と主イエスが言うときの「風」とは「聖霊」のことです。旧約(ヘブル語)でも新約(ギリシャ語)でも「風」と「霊」と「息」とは同じ言葉です。「安息日」と言うときの「安息」とは、神さまからの柔らかな風を感じることであり安らかな息を感じることなのです。

「どうすれば風を感じることができますか」。飯能集会で岩間さんが質問されました。しばらく考えて私がお答えできたことは、風を感じるためには少なくとも自分の中に閉じこもっていてはダメではないかということでした。窓を開けなければ部屋に新しい風は入ってこない。風を感じるためには心の窓を開く必要がある。かちこちに固くなっていては風は自分の中を吹き抜けてゆかない。

では、具体的にはどうすれば心を開くことができるのか。よい映画やよい音楽やよい本や、感動する出来事や人物に出会ったときに私たちは新しい風を感じるように思います。

風に身を任せる幸せは、おそらくグライダーやスカイダイビングなどで味わうことができるのだろうと思います。そこで私たちは重力から解放されて自由になる。風に乗る爽快感があると想像します。和田みどりさんが以前のむさしのだよりにスカイダイビングが自分の夢だと語っておられました。「風に乗って鳥のように自由に大空を飛んでみたい」。そう願わない人がいるでしょうか。私たちは心の奥底にそのような願いを秘めています。私たちの現実は束縛ばかりだからです。

『翼をください』

『翼をください』という歌があります。娘によると小学校6年の音楽の教科書にも出てくるそうです。昨年のサッカー世界大会の日本代表の応援歌にもなりました。一度礼拝の中で讃美歌として歌いたいとも思っています。

それは次のような歌詞です。

いま私の 願いごとが かなうならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように 白い翼 つけてください

この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

いま富とか 名誉ならば いらないけれど 翼がほしい
子供の時 夢見たこと 今も同じ 夢に見ている

この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

(山上路夫作詞、村井邦彦作曲)

この曲が私たちの心を打つのは、私たちの現実が悲しみや不自由に取り囲まれているからです。私たちは時折窒息しそうになる。ですから、「自由になりたい!重荷や束縛から解放されたい」という気持ちはよく分かるのです。これは一つの神への祈りでもあります。

レーナさんの自由さ

昨日、この場所でレーナ・マリアさんの証し会がありました。生まれたときから両腕がなく片足も不自由というレーナさん。その力強い歌声とユーモアを交えた証しに私たちは深い感銘を覚えました。30人もの方が新来会者カードにお名前を書いてくださったという事実にもそれは表れています。むさしの教会75周年の企画にまことにふさわしい内容のビッグイベントでした。八幡さん、杉谷さんをはじめ、労をとってくださった伝道委員会の皆さんに感謝したいと思います。

しかしレーナさんの何が私たちの心を打つのか。その歌や話を聞きながら私が強く思ったことは、彼女の自由さということでした。レーナさんは魂の自由ということを知っていて、それを讃美と証しで分かち合っている。「私には神さまに与えられた特別な使命があり目的があります。そしてすべての人にはそれぞれ二つとして同じもののないユニークで特別な目的があるのです」と語るレーナさんの顔はまぶしく輝いている。今自由な自分として生かされている。その喜びは主イエス・キリストを信じる信仰から来るのだとレーナさんは語ります。

そのレーナさんを障害者と見ているのは、いや、そう見させているのは、私たち自身の中にある歪みであり不自由さなのではないか。そう私は思います。「悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ行きたい」と歌う時の私たちの不自由さは、実は私たち自身の中にある「かたくなさ」「罪」から来るのではないか。神から切り離された生を送っている私自身の、私たち自身の律法的で不自由なあり方が示されている。その束縛から私たちを解放するためにあのキリストは十字架にかかってくださったのです。レーナさんの自由さはそのことを私たちに伝えています。

「安息日の主」

本日の福音書にある安息日論争を読むと、律法にこだわって大切なことを見失ってしまう人間の愚かさというものを強く感じます。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という主イエスの言葉は、人間を律法主義から解放する解放宣言です。律法は人間を守り生かすために与えられたのであってその逆ではない。たいへんに明快な言葉です。

「だから、人の子は安息日の主でもある」という主の言葉は、安息日の上に立つ主の権威を表していましょう。私たちに本当の魂の安息を与えることのできるお方がその権威をもって語っておられるのです。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない!」 この言葉を聞いて私たちは「ああ、そうだったのか!」とハッとします。白い翼がそこに与えられていることを感じる。キリストはご自身の権威によって私たちを大空に翼を広げて翔ぶことのできる者としてくださるのです。律法の呪いと束縛の中から私たちを解放し、信仰による本当の自由、本当の喜び、本当の慰め、本当の安息を与えてくださる。それが私たちの救い主イエス・キリストです。

パウロもルターも自らの内なる律法主義と対決して苦しみました。そしてキリストによって解放された。だからパウロは、「割礼の有無など問題ではない。キリスト・イエスを信じる信仰こそが大切だ!」と叫ぶことができた。ルターも律法によらず信仰によって人は義とされるのだというパウロ的な福音理解を再発見した。キリストによって解放されたからです。

キリストによる白い翼

パウロは本日の使徒書の日課でこう語ります。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(2コリント4・8-9)のだと。

それは私たちがキリストの力により頼んでいるからです。シリアスな状況にも関わらず、自分が自分がという力みはなくなっている。自分が空っぽになって、上からの風を全身に感じて生きる自由さを感じます。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6・15)とパウロが言うとき、確かに彼はキリストの自由な風に吹かれて生きていると言える。

人が安息日のためにあるのではなく安息日が人のためにあるのだと私たちに向かって大声で宣言してくださるお方。このお方の十字架が私たちを律法主義から解放する。罪と死の束縛から私たちを愛と自由の人生へと解放するのです。キリストの愛が私たちの心の窓を開け、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」というようにしなやかで柔らかな生き方へと新しく造り変えてくださるのです。

復活の主はご自身の息を弟子たちに吹きかけられました。神のいのちの息によって私たちは様々な囚われから解放されてゆきます。本日のみ言葉から私たちはそのようなダイナミックで自由なキリストの新しい風=霊=息吹を全身に感じ取ってゆきたいと思います。その風の中にこそ私たちのための本当の「安息」が備えられているからです。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福と導きとがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年6月25日 聖霊降臨後第二主日礼拝)