説教「新しいブドウ酒は新しい革袋に」 大柴 譲治

マルコによる福音書2:18-22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

つぎはぎだらけの革袋

本日はイエスさまの「新しいぶどう酒は新しい革袋に《という言葉に焦点を当てて、「真の新しさとは何か《ということをみ言葉に聴いてまいりたいと思います。

私たちは人生の中でしばしば、自分がつぎはぎだらけのボロボロの革袋にしかすぎないと思うことがあります。仕事や受験に失敗した時、人間関係に破れた時、病気になってしまった時、突然の喪失体験に襲われた時などがそうです。歳を重ねてゆくということも、一つ一つできないことが増えてゆくという意味では、ゆるやかな喪失体験を積み重ねることだと言えるかもしれません。大きな壁にぶつかって、自分の能力の無さに思い悩むこともありましょう。自分はなんてダメなのだろうかと思うことがある。そのような時に私たちは、自分はつぎはぎだらけの革袋にしか過ぎないと感じるのです。(太宰治の『人間失格』がベストセラーであるのも故無きことではないでしょう。)

そのような中で私たちは今日、イエスさまの言葉を聴いています。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い朊に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い朊を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ《(マルコ2:21-22)。

ここで「織りたての布《とは一度も水にさらされていない布のことで、水に濡れると大きく縮むという性質を持っています。ですから古い革袋に新しい布切れでつぎはぎをするほど愚かな者はいないと言われているのです。しかも、「新しいぶどう酒《というのは、まだ発酵途上にある元気のよいぶどう酒で、暴れるためにしっかりとした入れ物を必要とします。古い革袋だと裂けてしまうのです。新しいぶどう酒には新しい革袋が必要なのです。

繰り返し聖書が私たちに告げているイエスさまの「新しさ《とは、しかし自分は何てダメなのだろうと感じているどうしようもない自分をも大きく包み込み、繰り返し繰り返し古い自分を脱皮させ、日ごとに新たな存在として再出発をすることを許してくれる、どん底で再び勇気を抱いて立ち上がる勇気を与えてくれる、そのような新しさであるのです。

本日の日課の前半部分に記されている断食問答にこだわり続けている人間は、古く分厚い堅い殻をかぶった私たち人間の姿を現していましょう。それは自分の力では変わることのできない「古い人間《です。そのような人間が、イエスとの出会いを通して古い殼が打ち破られ、「新しい人間《としてキリストの祝宴を喜び祝う本当の自由へと解放されてゆくのです。主イエスの宣言する「新しさ《とは、その独り子を賜るほどに私たちを愛して下さっている神の、愛の強さを示しています。神は私たちから罪と恥とをぬぐい去り、新しい存在として日ごとに新たにして下さるのです。

ロブスターの脱皮体験

それはロブスターの脱皮に譬えることができましょう。ロブスターは脱皮を繰り返して成長してゆきます。古い堅い殻を脱ぎ捨てないとロブスターは成長することができない。脱皮の時は、ロブスターにとって一番生命の危険にさらされるときでもあります。堅い殻をうまく脱ぎ捨てることができなければそこで死んでしまいますし、脱ぎ捨てたとしても、24時間は柔らかい表皮のままで外敵に襲われたらひとたまりもありません。その柔らかい表皮が24時間のうちに水を一杯吸って一回り大きな外皮となって固まってゆくのです。脱皮するということはロブスターにとっては命がけのことです。

それと同様、私たち人間も成長してゆくためには自分の弱さや罪、つぎはぎだらけの惨めさや恥をさらけ出すようなリスクを冒さなければならないのかもしれません。堅い殻をまとったままだと新しくなることはできない。キリストが私たちのためにあの十字架の上で勝ち取って、私たちに与えてくださった新しさとは、十字架の苦難と死という無力さの極みにおいて、向こう側から復活が全き恵みとして贈り与えられるという新しさであるのです。

イエス・キリストという新しいブドウ酒は新しい革袋(信仰者)を必要とするのです。イエス・キリストというお方は、つぎはぎだらけのボロの革袋でしかない私たちを引き裂き、新しい革袋へと造りかえてくださり、私たちの存在をその根底から新しくするようなダイナミックな力を持ったブドウ酒なのです。聖餐式の設定時に私はウェハスを二つに裂きますが、それは十字架の上に引き裂かれたキリストのみ身体の痛みを表すと共に、私たちをそこから新しくする主の愛を表しています。

新しく水と霊から生まれるということ

先週はイエスさまとニコデモとの対話でした。賀来先生が説教して下さいましたが、そこでも「新たに生まれる《ということ、「本当の新しさとは何か《「どうすれば新しく生まれることができるのか《ということが主題でした(ヨハネ3:3-5)。

「水と霊から生まれる《というのは「洗礼《の出来事を表しています。ヨルダン川でイエスさまがヨハネから洗礼をお受けになられた時、天が開け、聖霊が鳩のように降って、天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者《。これは神さまからの究極の存在是認の声、”I love you.”という存在義認の声でありました。水と霊による洗礼とは、このような天からの決定的な声を聴くということです。「水と霊によって新しく生まれる《ということは、古い自分を捨て、新しい自分として生まれ変わるということです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた《とパウロは語ります(2コリント5:17)。

洗礼を受けてキリストに結びあわされた者は、古い自分がキリストと共に死に、日ごとに新しい自分としてキリストと共によみがえるのです。これは古い革袋でしかなかった私たちがキリストによって新しい革袋へと、その存在の根底から造り変えられてゆく。キリストにあって、再び新しくやり直すことができる。生き始めることができる。それは何という豊かな恵みなのでしょうか。

「わたしは何という惨めな人間なのでしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか《と嘆くパウロが(ローマ7:24)が、その直後に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。《と讃美の言葉を語ることができる、その落差の大きさに驚かされるのです。キリストが私たちに与えて下さるのは、そのような新しさです。そしてこの「新しさ《とは、日ごとに新しく創造され、神のいのちを贈り与えられるということを意味します。一期一会の今を大切に生きること、それが新しいブドウ酒を新しい革袋に注ぐということなのだと信じます。パウロはそれを「このような宝を土の器に紊めています《とも表現しています(2コリント4:7-18)。

『最後だとわかっていたなら』

先週開かれたJELC常議員会の開会礼拝で渡邉総会議長が印象的な詩をご紹介くださいましたので、最後にそれを分かち合いたいと思います。『最後だとわかっていたなら』と訳されたノーマ・コーネット・マレックという女性の英語詩です。米国の9・11テロの時、救出作業中に亡くなった29歳の消防士が生前に書き残した詩としても有吊になった詩です。原題は”Tomorrow never comes.”「明日は決して来ない《。日ごとの新しさというものを別の角度から示した詩です。

『最後だとわかっていたなら』

あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしはもっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように 祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・
「あなたを愛している《と わたしは 伝えただろう

たしかにいつも 明日はやってくる
でももしそれが私の勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして私たちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも
約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするためのほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと

忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日 あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう

そしてその人を愛していること いつでも いつまでも
大切な存在だということを そっと伝えよう
「ごめんね《や「許してね《や「ありがとう《や「気にしないで《を
伝える時を持とう

そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

(今は亡き、愛する我が子に捧ぐ。この詩を読まれるみなさんが、無関心や忙しさから愛する人にその愛を伝えることを忘れてしまわないように、この詩が、それを伝えるきっかけになるように、祈りつつ。ノーマ・コーネット・マレック、1989)

祈り

お一人お一人の上に、私たちを日ごとに新しくしてくださるキリストの愛が豊かに注がれますようにお祈りしています。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2009年6月14日 聖霊降臨後第二主日礼拝説教)