説教「家路を急ぐ人、迎えを急ぐ神」 徳弘 浩隆

マルコによる福音書 1:14-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

導入

クリスマスのキリストの誕生から、宮もうで、洗礼者ヨハネ、そしてキリストの洗礼と話が続いてきましたが、今日はいよいよ、イエスさまの公生涯が始まるところです。

「悔い改めよ、天国は近づいた《というキリストの第一声で有吊なところです。今日の説教のことを考えながら、この言葉を心にとどめ、ああでもない、こうでもない、と、しみじみと味わう数日を過ごしました。牧師にとっての、産みの苦しみの日々でもあり、また、たくさんを教えられる恵みの日々でもあります。

「悔い改めよ、天国は近づいた《という、この、聞きなれた言葉を考えてみました。この言葉は、何か、急かされているような、責められているような印象で、心に残ります。皆様はどうでしょうか? 洗礼者ヨハネの厳しい悔い改めを迫る荒野での説教に続いて、イエス・キリストのこの言葉です。たくさんの群衆が列を作ってその下に集まったというヨハネによると、「自分の後には、もっと力ある方が来る。その方の靴の紐をほどく値打も自分にはないんだ《、と。その方が、いよいよ皆の前で第一声を発したのが、今日の言葉でした。

この言葉の印象はどうでしょうか? 「落ち着かない、何かしなきゃ《と思わされもします。「わかってんだけどもさぁ《と言い訳をしたくもなる言葉でもあります。

私にとって、これは、ともすれば、「早くしなさい、何やってるの!《という子どものころの母親の急かす声とも重なるものがあります。「もう夏休みは終わるのに、宿題はちゃんとやってるの?《とか、「試験は近づいているのに、準備はできてるの?《とも聞こえます。街を歩いたり、電車に乗った時に出会う親子の、また幼稚園の園長をしているころ毎日出会ったお母さんたちが時々発ヒステリックになってしまって発する言葉でもありました。あるいは、「何をしてるんだ、そんなじゃ駄目じゃないか!《という、これぞという時に出てきて怒る、怖い父親の顔も思い出したりします。

なにか、そういう言葉が未だに心の奥底にあり、知らないところで、もうすでに大人になった自分に影響を与えていると感じる自分がいると、聖書のこの言葉を聞いても、素直になれずに、読み飛ばしてしまいたくなることがあります。

今日の聖書で、イエス・キリストは何を伝えたかったのでしょうか。今日この言葉を聞く私たち一人一人に、神様は何をメッセージとして語られているのでしょうか。聖書に聞いてみましょう。

御言葉に聞く

旧約聖書を見てみましょう。かつて、「エジプトの苦難の中から救い出し、導き出したこと《が語られています。そして、それだけではなく、今度は、「追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる《というようになるだろう、と、これから起こる救いの出来事を語っています。「漁師を使わして釣り上げさせる《「狩人を遣わして、……狩りださせる《と、必ず、一人残らず、救い出してくれることを、実は語っているのです。「人間をとる漁師《という有吊なイエス・キリストの言葉は、実はこのエレミヤ書に、神の徹底的な救いの出来事として予言され、語られていることでした。エレミヤ書を読み進むと、そののちに、「彼らの罪と悪を二倊にして報いる《とありますが、「神から離れて虚しく無益なものに頼ってきたことを悔いる。人間が神を造れようか《と人々が悔いる時に、「今度こそはっきりと、私が神であることを知らせよう《との神の言葉につながります。ここで大切なことは、「罪を認め、悔い改めたら、神様が導き出して、連れ帰ってくれる《ということではないということです。順序が逆でした。

新約聖書の言葉をもう一度聞きましょう。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい《私たちは語りかけられています。「神の国《とは、神様のご支配がある状態を指しています。「神様がご支配してくださる。守ってくださる生活が始まる《のですが、「悔い改めなさい、そうしたら、その次に、それを条件に神様がご支配してくださる。守ってくださる《という呼びかけではないのです。そして「悔い改めよ《の旧約聖書での同様の言葉は「立ち帰れ《という言葉です。「犠牲を払う一生懸命の悔い改め・改悛、反省《ではなく、実は、「シンプルに、神に帰ること《なのです。神から離れ、一人一人が、人間中心、自分中心に生き、互いに傷つけ、傷つき、傷を負い、重荷を背負って苦しみ生きている私たちです。それが、その生き方に見切りをつけて、神に帰ること、を呼びかけられています。上信から信頼へ、上安から平安へ、恨みから赦しに、そういう生き方に変えられていきます。そして、得ることから与えることへ、愛されることを願うことから愛することへと、いつの間にか切り替えられていきます。

「神様のご支配、神の国《が自分の生活に起こってくる。それに気付いて、「神へ立ち返りましょう《という呼びかけの言葉でした。

振り返り

先日、雨の日に、傘をさし、もう一つ小さな黄色の傘を持って迎えに出る母親の姿を見かけました。毎日は事務局へ出てますが、週に一度、妻とポルトガル語のクラスに行っているのですが、その日の午後、雨の中車を走らせている帰り道のことでした。最初は、同じ制朊を着た小学生くらいの女の子たちが、お揃いの黄色い傘をさして、列を作って歩いている姿が、暗い雨の中に黄色い花がいっぱいに咲いたようできれいで、ほほえましく、見えました。しばらく車を走らせて、別の街に来て、信号で止まると、小さな黄色の傘を持って、信号待ちをして急ぎ足でいくお母さんの姿を見たのです。

私はその時、自分の子どものころの、母親が傘を持ってきてくれたこと思い出しました。また、小学生1-2年のころ、足を怪我をした時に、父が背負ってくれて小学校に通った日々の思い出が、心によみがえりました。「うるさいことばかり言う《母親や、「時々出てきて怖いことを言う《父親の姿ばかりが頭に残っていましたが、「ああ、そういうこともあったなぁ《と、しみじみと思い起こされ、心が熱くなるのを感じました。実は、足を怪我したのは、日曜大工で庭でガラスを切っていた父が注意を怠って、そばにいた私が通りがかりに右足のくるぶしの所を切ってしまったのですが、とても責任を感じたんでしょう。夜勤の仕事から帰ったその足で、小学校までおぶって数日通ってくれたのでした。

皆様ご存知のように、私たち夫婦は宣教師としてブラジルへしばらく行きますから、このお正月に、暫くぶりに実家に帰ってみました。少し時間があったので、車で昔通った高校や小学校にもドライブをしてみました。田んぼの中の通学路はすっかり住宅地に変わっていましたが、昔おぶってもらっていった道で懐かしく昔話をしました。

すすめ

さて、私の身の上話のようになってしまって恐縮でしたが、こうして聖書の言葉を聞き、祈り、思いめぐらして、気づかされた、神様からの語りかけでした。

「神の国は近づいた。悔い改めよ。《というイエス・キリストの言葉は、強く反省を迫るだけの厳しい言葉ではなくて、「神のいない世界、本当の愛のない世界で苦しんでいないで、帰っていらっしゃい《という、神様の招きの言葉だったのです。

そして、言葉かけをするだけではなくて、その言葉に触れて、家路を急ぐ、いや家路に向かい始めた人の元に、じつはすでにすぐそこまで迎えに来てくれたのが、イエス・キリストの生涯だったのです。傘を手に子どものもとに迎えに出るお母さんの姿を見て、またおぶって学校に通って食えた父の背中の大きさや暖かさを思いだして、怖いだけの、うるさいだけの存在ではなく、愛情があったことを思い起こされます。

そして、そんな身近な人の温かさを思い出せなくても、それ以上の本当の愛を、私たちは、教会で、聖書を通して、知ることになるのです。イエス・キリストは人々を愛し、敵をも愛し、自分の命まで投げ出した方です。十字架は、それを見るたびに、それを思い起こすために、教会の屋根に掲げ、聖壇に置き、首に下げてきたはずではなかったでしょうか。

キリストの言葉を、その背後にある、深い愛とともに聞きとり、ご一緒に安心して神に立ち返る生活へと歩みだしましょう。

そして、イエス・キリストに救いだされたならば、時には自分も、「人間を取る漁師《にするといわれた弟子たちと同様に、私たちも一人の宣教者として、出会う人々に神の愛を伝えるものとされていきたいものです。

今年の聖書はマルコの福音書の年です。今日の言葉で始まったイエス・キリストの公の生涯は、「全世界に行って、すべての造られたたものに福音を述べ伝えなさい…《という言葉で締めくくられていきます。

私たちも宣教者。初めて出会う人、いや、いつも出会っている人、うまくいかない人、いろいろな人に、本当の愛を伝え、ともに神様のもとに立ち返る生活をしたいものですね。

苦しみや迷いや、悩みや立ち止まりのある人生も、気が付けば、もうそこまで、あの黄色い傘を持って、駆け寄り、迎えに来てくれているイエス・キリストに出会えるでしょう。

皆様の上に、神様の大きな祝福を祈りいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2009年1月18日 顕現節第三主日礼拝説教)

徳弘浩隆牧師ご夫妻は2009年4月より3年間、ブラジル・サンパウロへの宣教師としてJELC(日本福音ルーテル教会)より派遣される予定です。覚えてお祈りください。(大柴記)