野地秩嘉著「TOKYOUオリンピック物語」  廣幸 朝子

東京オリンピックはもう50年も前のことだ。50歳以下の人たちにとっては、日本近代史の1項目にすぎないのかと思うと、あの熱狂と興奮をリアルタイムで味わった私などは信じ難い気分だ。あなた方(50歳以下の人たち)は市川崑監督の映画「東京オリンピック」を見ただろうか、世界が絶賛した亀倉のポスターを知っているだろうか。それまでサルマネ文化と揶揄されていた日本人のデザイン力を世界が認めた作品であり、同時にグラフィックデザイナーという職業を日本に確立した契機であった。

彼のもとに集まった若者達によってピクトグラム(非常口とかトイレとか食堂などのマーク)が発明された。文化や言語の全く異なるものが数千人もひしめく代々木オリンピック村でどうやって彼らをスムーズに移動させられるかと考えた末のアイデイアであった。いまやそれらは世界中の空港、ホテルに取り入れられ、そして殆ど世界中の人が理解できる言語?になったのである。オリンピック村の食事の責任者であった帝国ホテルのシェフ村上は、何百もの皿を同時に提供するというノウハウを確立する。これはのちにファミリーレストランの展開、またホテルでの大規模結婚披露宴などにも道を開き、日本の高度成長の胃袋を満たしたのである。また渡世人のような評価しかなかった料理人がシェフというステイタスを得たのである。

IBMの竹下はのべ数千の人員をつぎ込みオリンピック史上初めてのリアルタイムシステムを完成した。そのシステムはいまもオリンピックで使われているという。そしてコンピューターの威力を知った各企業はこぞって導入をはじめ、これも高度成長の動力になった。信じ難いことに彼らは殆どノーギャラであったという。(同時に進められていた道路、新幹線、競技場などにはおそらく必要以上の税金が注ぎ込まれたと思うが)それでも彼らは情熱と知恵を惜しまなかった。彼らには指導者も手本もなかった。徒手空拳で新しい世界を切り開いたのである。

市川崑監督の「東京オリンピック」の評価をめぐるゴタゴタを見ると、評論家やメデイアが、世に迎合するだけのいかにいい加減なものかがよくわかる。黒澤監督などの作品を通じてすでに世界的に評価のある一流のカメラマンをそろえ、アスリートたちの最高の一瞬を見逃すまいと監督は万全の対策を採る。TUTAYAで借りられるならもう一度あの映画を見たいと思う。そして若い方たちにこの本の一読をお勧めする。

-むさしの教会だより第434号  2011年 11月 20日発行-