聖霊降臨後最終主日 説教「マタイ25章31-46」 浅野直樹

マタイ25章31-46

 今年7月にいずみの会で、遠藤周作の従兄弟、竹井祐吉先生をお招きして「信仰とユーモア」というテーマで講演をしていただき、私たちの教会がともに学びをする機会がございました。きょうは遠藤周作のお話をまずしようと思います。

遠藤周作の作品にはふたつの種類があります。ひとつは「沈黙」や「イエスの生涯」、あるいは遺作の「深い河」のように、真正面から信仰をテーマにした純文学。そしてもうひとつは、少し肩の力を抜いた、軽妙なタッチのエッセイです。その中に「考えすぎ人間へ」という本があります。1990年に出版されました。軽妙なエッセイといっても、遠藤周作の追求するテーマというのはいつも変わらず、それは人間の深層心理に根ざしたほんとうの人間らしさの原点を探ることではないかと私は思います。だからこそ、彼は自分の作品のなかでいつも信仰を問い続けたのです。この本のなかから、ひとつの彼の考えをまず紹介したいと思います。

ひとつの原因があって、それがひとつの結果を招く。我々はそう考えやすいわけですが、実はそれは違う、ことはそんなに単純じゃないんだと遠藤は説くのです。

たとえばテニスのボールをぽんと打つ。それは自分が手加減して打ったから、目指したところへ飛んでいったと思うかもしれない。けれども実際は、ボールを打った人の意志だけが原因とはならず、そのときの風の動きとか引力とか、微妙な力が働いてボールはそこへと落ちるのです。つまりすべてのことがらは、一つの原因によって成り立っているということはなく、いろいろな要因によって成立しています。そのことは人間の心理だって同じなんだと遠藤はいうのです。ちょっと引用します。

「私は憐れみからこの人にお金をあげた」なんてことを聞いたら、ナニを言うとるかと思う。憐れみだけじゃないでしょう。お金をあげるという行為の中には、自己満足もあるだろうし、その人から感謝されたいという気もあるだろうし、自己顕示欲もあるだろう。いろいろな感情が混じっているわけです。それを「善意にかられて」とか「愛にかられて」とか、一概にはいえない。たくさんの因子がそこに入り込んでいる。」

遠藤周作は、人間というものはそうだと決めつけて書いていますが、そう決めつけられてしまうのもどうかと思います。けれどもそれに同調する人もきっとたくさんいるはずです。ここに慈善、チャリティという良いわざの難しさがあると、私も思うのです。

きょうの福音書に出てくるイエスのたとえ話は、そういった人間の良いわざについてです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 食べさせ、飲ませ、宿を貸し、服を着せ、見舞い、牢にいたとき慰問する。イエスのたとえ話の中の話ではありますが、この人はなぜそうしたのでしょうか。遠藤周作は、そこには自己満足や、感謝されたいという気持ち、自己顕示欲も混じっていると言いました。それが自分も含めた人間の正直な姿なのだといいます。そうかもしれません。けれどもきょうのこのたとえ話を読む限り、自己満足とか、感謝されたいといった、自分にとって都合のよいだろう気持ちを、打ち消してしまう強い言葉が、このたとえ話のなかにはあるのです。

「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」という言葉が、それです。本人は気づいていないのです。良いわざが無意識のうちに行われているということが、このたとえ話の中に隠された最大の特徴です。

私がどう思ったかということとは直接は関係がないのです。憐れに思ったとか、かわいそうだったからとか、感謝されてうれしかったとか、黙って見ていられなかったとか、気の毒に思う感情さえ入り込む余地がありません。自己満足や感謝されたいという感情は、いわずもがなであります。

よいことをする人の心の状態がどうなっているかということは、全然問題にならないレベルでのお話が、きょうのイエスのたとえ話なのです。慈善活動とかチャリティに関わるとき、自分がどう思っているかとか、心の中がきれいかどうかということは、全然問題ではありたません。

もっというならば、その行為自体が良いとか悪いとかといった倫理的判断さえもする必要がないほどです。明日を生きられない人が今目の前にいるとき、いろいろ考えて行動するというのではなく、我を忘れて、本能的に、無意識にその人に手をさしのべてしまっているということ。

別の言い方をすれば、このとき自分が消えているのです。このおこないをしているとき、自分というエゴはそこにないということなのです。自分を意識することから無縁なレベル。心さえも届かないレベル。人間が人間であるための、最も原初的レベルの出来事が、これなのかもしれません。聖なる領域という言い方だけがあてはまります。それがきょうの福音書に描かれている世界です。

ディアコニアという言葉をルーテル教会ではよく使います。これは、新約聖書の中に出てくる「奉仕」を意味するギリシャ語です。奉仕にせよディアコニアにせよ、要は働き、わざ、おこないです。2006年にエチオペアのアジスアベバで、ディアコニアに関するルーテル世界面例LWFの会議があり、出席する機会がありました。その会議で、LWFは福音の再定義をして、「ディアコニアが福音のコアである」という声明文を採択しました。ディアコニアが福音のコアというメッセージを短絡的に考えると、おこないが福音の中核であるというふうにも聞こえます。ルター派の教会は、福音を行いと結びつけるのは、とても慎重になります。おこないによって救われる、わざによって神の恵みを受け取る、という人間のおこない中心の救いという考え方へと進みかねないからです。その会議ではまた、ディアコニアの働きというのは改宗が目的なのか、という問いもありました。日本ではあまり宗教の改宗ということは大騒ぎにはなりませんが、イスラム教が根強い国などでは、クリスチャンのディアコニアの働きは改宗目的だ、などと非難されることもあるのだそうです。

会議ではディアコニアという考え方をどう定義づけたらよいかということでかなり議論がありました。それは簡単なようで難しかったです。というのは、ルーテル教会が国教会の北欧やドイツなどでは、もうすでにディアコニアという名の下に、じつに多くの社会福祉の働きが行われているなど、それぞれの国の事情によっていろいろな展開の仕方があり、いろいろな文化的宗教的背景があるため、すべての人を納得させるような、ディアコニアの定義ができないのです。

ディアコニアとはいったい何か。あきらかにそこにはイエスの教えが反映されていることはたしかです。ディアコニアが福音のコアだというけれど、その福音のコアには何があるのか。私は、その答えがきょうのマタイ二五章のたとえ話の中にあると考えています。

自分の心の動きとか、自分にとっての損得や利害とかはいっさい問題にならない、自分が消えてしまっている働き。正しいとか悪いとかという倫理的判断をも寄せ付けない。ただ、そこに苦しんでいる人がいるから、神様に押し出されるままに、自分を意識することなく出てくるわざ。そこに福音のコアとしてのディアコニアがあるのではないでしょうか。そこでは人間の心理や下心、満足感や喜びはすべて消えています。伝道して教会に招こうという願いもありません。

その会議では、グループに分かれてディアコニアの定義を試みました。グループ内でまとまったひとつの見解は、「ディアコニアとは神の愛を映しだすこと」でした。ディアコニアは自分たちのわざではない。自分たちの愛が表れているものでもない。それはちょうど月と同じで、自分自身は輝いておらず、ただ太陽の光を浴びて、それを映しだしているに過ぎない。それと同じく私たちがなすディアコニアは、神様の愛を私たちが浴びて、その愛を私たちが映しだして、それを最も小さい者の人にとどけることなのです。

教会の暦の一番最後の主日、聖霊降臨後最終主日にて、わたしたちは終末といわれる時間軸の中でこのメッセージを聞きました。時の終わりという究極の次元で語られた、イエスのメッセージです。究極の次元でディアコニアが語られたのです。私たちは神の愛の光を、発光はしません。できません。私たちのうちにそれはないのです。けれども、教会に集って、主イエスのみことばを聞き、それにアーメンと答えて生きる私たちは、まがりなりにもこの光を反射させる映し鏡だったらなんとかなれるのです。

そのとき、おそらく私たちも神様に向かって尋ねるでしょう、「主よ、いつ飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と。普段いい加減な私たちですが、たぶん私たちはまがりなりにもしているのでしょう。キリストにつながりながら。そしてこれからもまがりなりにもしていくことでしょう。ただキリストにつながることで。おこないによって、言葉によって、そして祈りによって、神の愛を反射していきましょう。

—  2011年11月20日 むさしの教会にて 聖霊降臨後最終主日 説教 浅野直樹(市ヶ谷教会牧師)–