説教「神の恵みはすばらしい《 テレルボ・クーシランタ

マタイによる福音書 20:1-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

洗礼〜神のすばらしい恵みの日

今日は武蔵野教会の礼拝に出席させていただき、感謝申し上げます。私は11年前の1997年12月に日本へ参りました。そして、1998年1月に日本語の勉強が始まりました。そのころ私は日本語の学校で勉強しながら、一年間、武蔵野教会に通っていました。その時、私は「あいうえお《から日本語の勉強を始めたばかりで、話しかけることもできなかったし、相手が何を言っているのかも分からなかったのです。しかし、教会の大柴先生、ご家族の皆様、教会員の皆様は私を受け入れてくださったのです。そのとき、私は日本語を理解することはできませんでしたが、たくさん笑っていたのです。私は嬉しかったのです。また、10年前の秋に、この教会で始めて日本語の礼拝の説教をしました。そのときのことを思い、今、懐かしい気持ちでいっぱいです。

その同じ頃、私はT.Iさんが指導されていたノンクリスチャンの聖書の学びにもお誘いをいただいて、日本語はまだできないながらも出席しました。そこでH.Uさんと出会いました。今日、Uさんは洗礼を受けられるのです。それは神の良いお導きによって行われるのです。長い年月の間、神はUさんに少しずつ心の準備をなさったのです。今日は心の喜びと感謝の日なのです。洗礼を受けられる方はイエス・キリストに結ばれ、天の国のメンバーにもなり、この教会の会員にもなるのです。神はUさんを自らの子供として受け入れてくださいます。そして、神はUさんと洗礼の契約を立てられました。神はそれをいつも覚えていらっしゃるのです。それで、この日は人生の新しい誕生日だと言われています。今日は、神のすばらしい恵みの日なのです。洗礼の中には救いが入っているからです。おめでとうございます。

労働者

今日の福音は、昔のイスラエルの労働のことについて書かれています。その当時、人々は日の出から日の入りまでの12時間働いていたようです。そして、一般的な一日の賃金は1デナリオンでした。さて、収穫のときには、多くの働き手が必要でした。ぶどう園の収穫は雨が降る前にしなければならなかったからです。そのころ、市場は労働者の集まるところで,そこで雇い主は労働者を見つけることができるのです。雇い主は出会ったとき労働者と賃金についても相談していました。雇い主は一日の間5回、市場に行って労働者を探してみたのです。イエスのたとえで、労働者は雇い主と出会った時間により、12時間、9時間、6時間、3時間と1時間の働きになりました。

ところで、労働者を1時間の働きのために雇うということは普通のことではありませんでした。今、この物語では「先《か「後《かということが問題になっていると思います。イエスのたとえでは、先に来た人にも後から来た人にも同じ賃金を払うということが話しの中心になっているからです。労働者の監督が賃金を払う時、雇い主もそこにいました。

支払いは、最後に来た者から始めて、最初に来た者へと、順に行うことになりました。主人は働く前に働き手と賃金について話していたのですが、賃金を払った時皆驚きました。どうしてでしょう。全ての労働者は一日分の賃金をもらったからです。つまり、12時間働いた人も、9時間、6時間、3時間働いた人も、そして、1時間しか働かなかった人も、みな同じ賃金をもらったのです。それは、正しいことなのでしょうか。朝早く来た人々は傷ついた心でいたのではないでしょうか。彼らは長い一日働いていて、暑さのため、汗も流したでしょう。また、夕方になると、涼しくなるので、1時間だけ働いていた人が同じ賃金をもらうことは正しくないと考える方々がいらっしゃると思います。ですから、人間の間にねたみも出てくるのです。

聖書の物語の賃金を払うということは私達の社会の仕事につながってはいないのです。では、イエスのたとえの意味は何でしょうか。イエスが話されたのは普通の仕事の賃金についてではありませんでした。イエスは神の国に属していることについて語ってくださったのです。それは、全ての人間につながっています。イエスは人間の救いということについて話されたのです。救いとは神の恵みによってだけ、イエスを通してだけ、信仰によってだけ受けることができるということです。救いには、人間の良い行いは全く関係ありません。救いとはいつもイエス・キリストによってだけ与えられるのです。それは、神のプレゼントだからです。一般的に良い行いによって、救いが得られると考えてしまうかもしれませんが、私達は良い人生によっては神の前に入ることはできないのです。

皆が同じ神の恵みに与ります

私達は皆、同じ救いを受けられるのです。神は、子供のころからクリスチャンとして生きている人も、生涯の最後のときイエスを信じるようになる人も同じように受け入れられるのです。それは、神の恵みによってだけなされることです。神は救いを自ら愛によってお与えになるのです。私達それぞれは神のプレゼントを受け入れましょう。神が与えられた喜びの中へ入りましょう。神の国で大きな宴会があるからです。そこでご一緒に祝いましょう。イエス・キリストは私達の救いのためにご自分自身を十字架につけて、死なれ、葬られ、三日目に復活されました。イエスはあらゆる人間を罪と、死と、悪魔の力から解放されるのです。ですから、私達は罪の赦しを受け、永遠の命を得ることができるのです。ここに救いがあります。主イエス・キリストは私達一人一人、それぞれの救い主になったのです。それは恵みなのです。

私達は恵みを人生に願っているのではないでしょうか。神から慈しみと憐れみをも望んでいるのではないでしょうか。特に、何かで失敗した人は恵みを望んでいると思います。ある時には、お一人おひとりは自分が行った悪いことや、悪口や相手に対して言った強い言葉を忘れてしまいたいと心で望んでいるのではないでしょうか。つまり、私達は恵みを望んでいるのです。そして、罪の赦しの恵みをも待望しているのではないでしょうか。

恵みとは赦しをももたらして来るのです。残念ながら、人間社会は恵みによって動いていくことはできないのです。

恵みとは神と人間との関係につながっているものなのです。神に対しての人間の熱望は下から上の方へローソクの炎のように上がっているのです。絶望している人は目を天の方へ上げていきます。そのとき「わたしはどこから助けを見出せるだろうか《という問いがあるのでしょう。

しかし、自分自身と成功だけを信頼している人は恵みを望んでいないと思います。

人の祈りが苦難の中から神の元に上がっていったとき、神の恵みは天からその人の元に降っていくのです。そこに人の希望があります。主イエスはお生まれになったとき、人間となり、私達と共にいらっしゃいます。聖なる者が、罪人である人間と一緒に生きていらっしゃいます。つまり、愛は怒りの中へ、命は死の中へ、健康は病気の中へ、栄は恥の中へ来るのです。すなわち、私がない物を受けるのです。神の恵みは絶望の中へ希望を、泣いている人に喜びを、平安が無い人に平和を与えられるのです。それは、神の恵みなのです。そのようにして、恵みを受けるのです。神は恵みを人間の外からお与えになるのです。それはプレゼントだからです。

私達は恵みを神とイエス・キリストから受け入れるのです。神はご自分の恵みと自ら自身をお与えになるのです。そこには神自ら善と愛を私達に渡されるのです。それは、死んだような者の心に命が流れ、絶望の中で希望が生まれ、閉じている心が少しずつ開くようになるのです。

神から受け入れた恵みは私達の人生の土台で、恵みよって新しい一日が始まるのです。恵みを見ると、将来のことも勇気を持てるのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みを信頼して最後に死ぬこともできるのです。こうして、恵みは太陽のように光と暖かさを与えてくれるのです。それは、暗を取り去り、人生は新しい力をもらうのです。

それで、私達は心より神と主イエス・キリストに感謝を致しましょう。本当に、罪人である私達は主イエス・キリストによって聖なる者になるのです。つまり、私達は同時に罪人であり、義人であるのです。私達はキリストによって、恵みを通して、信仰により救われるのです。それは、神から受け取った無償のプレゼントなのです。

お祈り

憐れみ深い神様、天のお父様。恵みに感謝を致します。
神様は罪人である私達を愛によって受け入れてくださっているので、心から感謝を致します。イエスは私達の重荷を背負ってくださり、私達に自ら聖なる義をお与えになり、感謝をいたします。
今日、薄井さんの洗礼式が行われます。そこで神の恵みと救いが人間の物に与えられるのです。心より感謝を致します。これからも薄井さんとご家族の皆様の上にも神様の祝福が豊かにありますように。
私達は自分の洗礼をも思い出しています。毎日私達は洗礼の恵みを通して新しい力と信仰を受けるのです。私達はイエスに従うように生きていくからです。主よ、私たちをお導きください、助けてください。救い主イエス・キリストによってお祈りをいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2008年10月12日 聖霊降臨後第22主日洗礼・聖餐礼拝説教)

テレルボ・クーシランタ先生は、現在、東海教区の栄光教会で宣教師として働いておられます。ヘルシンキの聖書学院の院長を辞し、50才を越えて日本への宣教師となるよう神の召しを受け来日されました。二年間の語学研修中、最初の一年をむさしの教会で教会生活をなされました。2009年3月末に宣教師を引退しフィンランドに帰国されます。帰国前に一度むさしの教会で説教をお願いし、この日実現いたしました。そのお働きとお交わりに心より感謝いたします。 (大柴記)