小川修パウロ書簡講義録 ローマ書講義I




小川修パウロ書簡講義録刊行会編 (箱田清美、高井保雄、立山忠浩、大柴譲治)





書評 (『本のひろば』2011年11月号より)   石川 立

神学校や大学神学部において、今日、〈聖書神学〉の講義を聴く機会はほとんど失われてしまったのではないだろうか。〈聖書学〉の授業は豊富にあるだろう。〈神学(組織神学)〉の講義をする人材が不足しているということも聞いたことはない。しかし、〈聖書神学〉という学問分野は、実質上空洞化しているように見える。〈聖書学〉と〈神学〉は概してそれぞれの成果に無関心である。〈聖書学〉は〈神学〉から離れることで科学の仲間入りをしたいと願っているし、他方で、〈神学〉は世俗化した〈聖書学〉の成果に関心を示さない。ほとんど無関係となってしまったこのふたつの用語を敢えて再び結び付けることによって、何か新しい地平が披かれてくるのかというと、そういうわけでもない。〈聖書神学〉という用語は死語になりつつある。

〈聖書学〉と〈神学〉とがこのような(無)関係にある中で、正面から堂々と〈聖書神学〉を講じる書が現れた。

本書は小川修氏が2007年4月から2010年1月まで同志社大学大学院神学研究科で行った講義の記録である。小川氏は日本、アメリカ、ドイツの諸大学で学んだ後、日本の一般の大学で教鞭をとるかたわら、日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学で長年おもに宗教哲学を講じてきた神学者である。東京と那須に自宅を持つ氏は前述の期間、同志社大学嘱託講師として隔週土曜日に入洛し、大学院生に向けてパウロ書簡の講義を展開したのである。本書はその講義録であるわけだが、講義ノートに少々手を加えて書物にした類ではなく、講義の様子を音で拾えるかぎり丁寧に文字化したものである。質疑応答はもちろんのこと、氏が声に出した間投助詞、終助詞、間を埋める小辞などのほか、教室の笑いや「黒板にタンタンと書く」というようないわばト書も記入されていて臨場感にあふれている。

同志社大学神学館二階演習室で、パウロが書簡を通して指し示した「事柄(ザッヘ)」が静かに、しかし、力強く語られていたのである。本書にはローマ書1章から3章までの講義が収められている。授業はローマ書を原文で読み解きながら、これに詳しい注釈を述べ加える形で進められた。あくまでも聖書にゆるぎなく基づき、しかし、新約学でなされるように聖書の内容、思想や歴史的背景の解説・説明で終わるのではなく、究極的には一体何がそこで言われているのかが粘り強く追求される。とりわけカール・バルトと滝沢克己に学び、他の聖書学者の研究・解釈に耳を傾けながら、聖書に肉薄するのである。本書の核心は本の副題にもあるとおり「神のまこと」である。それはいつもそこから語られ、常にそこへと立ち帰るべき場所である。神のピスティスとは、神を信じるという人間側の心の状態ではなく、神の側のまことであり、これこそが何よりも恵みであり、福音の根拠であるという主張が本講義に一貫して響いている。

実は、著者小川氏は同志社での講義の終了一年後、今年の一月に天に召された。その一カ月前に、氏を敬愛するお弟子さん方(氏の薫陶を受けた福音ルーテル教会の牧師方)が病床にある氏の承諾を得て「小川修パウロ書簡講義録刊行会」を立ち上げ、講義のテープ起こしとその編集を急いだのである。編集にあたって、師が評価していた滝沢克己の『聖書を読む マタイ福音書講解』(創言社)を模して教室の臨場感を伝える形を採用したのも、講義する師の姿を生き生きと残したいという、お弟子さん方の熱い願いからであろう。氏の追想も収録されている。研究者、教育者、そして何よりもたゆまぬ求道者としての氏のお姿が浮かびあがってくる。

パウロ書簡講義録は全十巻に及ぶ予定である(最終巻は論文集)。テープ起こしから編集まで、刊行会の牧師方のお骨折りに感謝したい。残る巻も順調に上梓されることを願っている。

全巻が揃った暁には、日本を代表するパウロ書簡講解になることはまちがいない。共に〈まこと〉を求める読者方には全十巻すべて通読されることをお薦めする。氏を同志社にお招きした者として筆者も全巻が出揃うのを心待ちにしている。

(いしかわ・りつ=同志社大学神学部教授)




 

小川修先生とわたし        大柴譲治

1980年4月にルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)に学士編入した私が、小川修先生の「宗教哲学」の授業の存在を初めて知ったのは、当時ルター寮の先輩であった神学生の大和淳さんに強く勧められたためでもあった。同年編入の神学生・立山忠浩さんと共に1981年4月より出席し始めた授業は1980年度からの継続で、カール・バルトの『ローマ書』講読だった。既にルター寮の先輩であった神学校最終学年在学中の鈴木浩さん(現ルーテル学院大学歴史神学教授)から寮で薫陶を受けていたので、バルトが極めて重要な神学者なのだということは知っていた。小川先生の講義は深く魂にしみいるような迫力を持っていた。その授業に出席するたびに私たちは毎回、神学するということの厳しさと喜びとを感じつつ、先生の真理探究の姿勢の真摯さに圧倒される思いがしたものである。振り返ってみると小川先生は、若い頃からその最後に至るまで首尾一貫して「キリストのピスティス」を探求しておられたのだと思う。

また当時、一度だけであったが神学校の特別講義で、小川先生と吉永正義先生(バルト『創造論』訳者)、そして井上良雄先生(バルト『和解論』訳者)の三人がバルト神学について討論してくださるという意欲的なセッションがあった。三人の先生がたの話はそれぞれ次元が異なり、残念ながらほとんどかみ合わなかったという印象が残っているが(もっともそれは当時の私がその高度な議論についてゆけなかったということでもあろうが)、三人の共通したバルトへの深い思いに圧倒されたひと時でもあった。実にチャレンジングなよい企画であったと思う。

翌1982年度に開講された「宗教哲学」の講義は私にとって運命的とも呼ぶべき重要なものであった。シラバスによると講義概要は「現代日本のイエス・キリスト研究の検討」となっている。小川先生はその年、滝沢克己先生の『聖書のイエスと現代の人間』を取り上げ、田川健三の『イエスという男』と八木誠一の『イエス』、荒井献の『イエスとその時代』等と比較検討するという講義をしてくださった。先生は聖書を自分自身で原語から直接読み解くことの大切さを常に強調しつつ、滝沢先生への深い共感を表明しながらも、批判的な視点からそれらの研究書を比較し講読してくださったのである。この講義は私にとっては大変役に立った。そこでは、どこまでも聖書原典に忠実でありつつ、様々な解釈に対して聖書そのものからそれらを相対化し、あくまで自身の批判的な視点を大切にするということを徹底して教えられたように思う。私自身は同時に「主観性の客観化」という学的な課題を示していただいたと考えている。私がライフワークとして「罪の意識/自覚」にこだわり続けてゆくためにもそれは必要な指摘であった。1982年7月よりインターンに出た立山さんから依頼され、秋からの講義を毎回テープに録音して九州まで送ったことを思い出す。

同じ頃、やはり神学校の非常勤講師であった井上良雄先生がドイツ語Cのクラスでバルトやトゥルナイゼン、ボンヘッファーの説教や黙想を講読してくださっていた。小川先生と井上先生のお二人には「真理の求道者」として響き合う姿勢があって、私自身はいつも身を正される思いがしていた。

1982年の5月頃であっただろうか、隣のICUで開かれる会合に滝沢克己先生が出席されるということで小川先生に連れられて何人かの神学生と共に参加したことも今は懷かしい思い出である。最晩年の滝沢先生のお姿とそのお声とは今でも心に焼き付いている。

立山さん大和さんと相談して、「小川ゼミ」とか「小川塾」と勝手に称して小川先生の那須のご自宅に押しかけて勉強会を開いていただくようになったのが 1999年の夏からであったと記憶する。以降毎年一回夏に、このような押しかけ自主ゼミが始まった。小川先生は困っておられたかもしれないがさして迷惑な顏もなさらず、私たち「草刈りボランティア」が来てくれることを楽しみにしていてくださったようでもある。その参加常連は高井さん、大和さん、立山さんと私の四人だった。私たちにとってそれは神学校時代の延長でもある至福の時であった。ゼミの合間には必ず一度温泉訪問プログラムが挟まれた。「秘境」と呼ぶべき甲子(かし)温泉旅館大黒屋に何度も連れて行っていただいたことを思い起こす(もっとも多くの場合は私が運転手であったが)。

勉強会の中である時、小川先生は「立ち居振る舞いの美しさ」というものに言及されたことがある。小川先生が学生時代に合気道をしておられたということをずいぶん後から知ったが、いつも凛としておられた小川先生の立ち姿は剣豪のようであって眼光も鋭く微塵も隙がないように感じられた。そこには確かに小川美学があったのだろうと思う。「パウロは男らしい」ということもよく言っておられた。他方で先生は『フーテンの寅さん』の映画が大好きで、野鳥観賞にも深い造詣を持っておられたことも記しておきたい。

盲腸癌のために体調を崩してから、小川先生はほぼ一年でこの地上での生を駆け抜けられたことになる。聖路加国際病院の緩和ケア病棟に入られたあと、私は拙論「聖書におけるスピリチュアリティー」(『キリスト教カウンセリング講座ブックレット6』収録)を小川先生の病室におそるおそるお持ちした。不肖の弟子である私が、初めて小川先生に提出したペーパーでもあった。学生時代には恐れ多くてレポートを書くことができなかった。小川先生は辛い末期癌との闘病生活の中でそれに目を通してくださった。ブックレットのあとがきにも記したが、小川先生は「よく書けている」と喜んでくださったそうである。私が病室を訪問した時、「苦しみながら読み、読みながら苦しんだ。これは実に役に立った。ありがとう」。そう言って私に手を差し出して握手を求めてくださった。恩師からのバトンを引き継いだ思いがして、私の中には熱いものが込み上げてきた。その手と声の温もりと確かさを私は生涯忘れることはないであろう。

2010年の9月、浦安の施設にしばらく入居しておられたことのことである。既に癌は腰にも転移していたらしく、先生は鋭い腰痛に耐えておられた。ベッドに横たわりながらも先生は、訪問した立山さんと私に「教え子たちが作ってくれたものだが」と言って表情を和ませながら一冊の卒業文集を見せてくださった。聖徳大学の教え子たちの文章に挾まれて、そこにはドイツ人の奥さまについて触れた小川先生ご自身の文章も掲載されていた。その照れたような微笑の中に私は教育者としての小川先生を垣間見た思いがした。先生は人を育てることの中に深い喜びを感じてこられたのだと思う。小川先生との出会いに心から感謝して筆を置くこととする。



リトン、 2011/8/25出版、 税込み3150円