説教 「冷たい水一杯でも」 江藤直純牧師

マタイによる福音書 10:34-42

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

この礼拝堂ができたのが1958年、今から47年前のこと。それから何度か手が加えられました。1959年には正面の壁面には真っ黒の大きな十字架が架けられていたのが、アメリカの教会から寄贈されて現在の美しいステンドグラスに変わりました。武蔵野教会といったらあの羊飼いであるイエス・キリストの絵と誰もが思い出す、このステンドグラスです。梁(はり)が剥き出しだったのが真っ白な天井板が張られました。エアコンもスピーカーシステムも改善されました。牧師館の東側のお部屋の上に乗せる形で教会の和室を増築しました。狭かった台所はきれいで広いお手洗いに変わり、玄関の西側に新しい台所や食堂、二階の集会室が加えられました。現在の駐車場の中央部に鷺宮の神学校の物置小屋を解体して担いできて、組建て直し、畳を敷き、掘っ立て小屋なのに石居正己牧師を覚えて「石居記念館」などという大層な名前をつけて4畳半2間の教会学校の教室を手作りで作ったのはもう35年も前のことです。現在の会員の方々の多くがご存知ではないエピソードを話せるなんて、わたしも随分と年をとってしまったものだと思わず苦笑いをしないで入られません。

でも、お話したかったのは、個人的な感慨ではありません。現在地に移転してから47年にわたっていろいろな成長発展を遂げたけど、一貫して変わらなかったのは、ノアの箱舟をかたどった礼拝堂そのものですし、礼拝堂全体の三分の一もある広い聖壇、その中心にある聖卓、聖書朗読台とこの説教壇です。聖霊を象徴する純白の鳩、神の小羊を刻んだテラゾー、六コのブロンズの燭台、外壁の野あの箱船のレリーフはそのままです。そして、なにより変わらず続いたのが、この説教壇から語られる福音のメッセージそのものです。青山四郎先生野後を受けた益田啓作先生からから現在の大柴譲治先生まで牧師は何人も交代し、国内外から多くのゲストスピーカーを説教に招きましたが、そこで語られる福音は、聖書が証しする神の愛、イエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされた神さまの限りなく大きく深い愛でした。主日礼拝であれ、教会学校の礼拝であれ、結婚式であれ、葬儀告別式であれ、少しも変わることなく、全くぶれることなく神の愛の福音が語られました。

聖書に基づき、少しもぶれることなく、同じ福音が語られてきたと申しましたが、実は聖書には一見すると正反対に見えること、あそことここでは違ったことを言っているように思えることが少なからずあります。先々週の福音書の日課には「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリヤ人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところに行きなさい」とイエスさまが仰っているのに、同じマタイ福音書の最後では「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と全世界への宣教の大命令を発しておられます。もっと小さなことでは、金持ちの青年が永遠の命を求めてなにをなすべきかと尋ねると、イエスさまは「あなたにかけているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積む」と実に厳しいことを仰ったかと思うと、その一章後では、あの徴税人ザーカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します」と誓うと、「今日、救いがこの家を訪れた」と言って喜んでくださってます。全財産だったのが半分でよくなったのでしょうか。

そして、今日の福音書の日課です。山上の説教の中の有名な一節「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、口語訳で言えば「平和を作り出す人たちは幸いである」というあのイエスさまの教えを、皆さんは胸に刻み込んでいらっしゃるでしょう。旧約から新約に聖書全編を通して、愛と平和と正義、この三つは繰り返し繰り返し語られています。アッシジの聖フランシスに帰せられているあの平和の祈りを愛唱していらっしゃる方々も少なくないでしょう。この8月3日には東京教会で、パレスチナ人のルーテル教会牧師ミトリ・ラヘブ牧師を招いて「爆弾には愛を。ー瓦礫から生まれたガラスの天使の物語ー」という講演会を催し、平和を訴えようとしているではありませんか。(ガラスの天使を見せる)

それなのに、聞き違いではないかと我が耳を疑うようなイエスさまの言葉が記されているではありませんか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(34節)。さらに続く言葉にも驚かないではいられません。「人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(35節)。家庭崩壊だ、ドメスティック・バイオレンス家庭内暴力だ、虐待だ、子どもによる親殺しだなどなどさまざまに病んだ社会の現実を毎日のように目にしていますと、イエスさま、あなたがここで仰っていることは一体どういうことでしょうか、としがみついてでも尋ねないではいられなくなります。

宗教の違いで仲違いせよというような教えであるはずがありません。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」という時の「もたらす」は「投げ込む」とも訳せる言葉です。「平和ではなく、剣を投げ込むために来たのだ」と読めるのです。イエスさまが教えておられる、いえ、教えるだけでなく、自ら十字架にかかって打ち立ててくださった平和は、外からぽんと投げ込むような形で実現するものではありません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人を造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ2:14-16)。

この平和は、外からポンと投げ込めるような、仲間内だけの小さな仲良しという意味の平和ではありません。親子や嫁姑が父や母、姑の支配のもとで保っている「平和」、あるいは同じ民族、同じ宗教の者同士が固まって保とうとするような「平和」、そんなものがイエスさまの仰る平和ではありませんでした。むしろ、そのような自然的な、内に固まり外に壁を作って敵対するような集団内の「平和」は一度切り離さなければならないのです。「わたしは敵対させるために来た」と言われる意味は、そのような内には一見平和そうだけど、外に対しては敵対するような、あるいは内側でも秩序や支配で保たれている、そのような「平和」は一度ばらばらにされて、真の平和を築かなければならない、私はそのために来たということなのです。「剣」とはそのような既存の排他的「平和」を一度組み立て直すための道具なのです。

でも、十戒で「あなたの父と母とを敬え」と教えられて以来、神さまが家族を大切になさらないはずがありません。ですから、ここでイエスさまは「わたしか、父や母か」「わたしか、息子や娘か」という二者択一を迫っておられるのではありません。「わたしよりも」という意味は、親子関係や嫁姑関係、同じ民族、同じ宗教集団というもののほうがいちばん大切と思いがちなわたしたちに、それらはもちろん大切なのもの、大事なものだけれども、それがそれ自身でいちばん大切なものではない、それが神さまの地位に座ってはいけない、と仰っているのです。もしそうなったら、その関係以外、つまり他の民族や他の宗教集団とは憎み争っても仕方がないということになります。あるいは、家族内でひとたびなにかがおかしくなったら、親子でさえも殺し合うほどの歯止めが利かない事態が起こります。現に起こっています。中東ではイスラエルとパレスチナ、ユダヤ教とイスラム教、世界規模ではイスラム教原理主義とキリスト教原理主義、東アジアの関係のもつれも深刻です。

そのような閉じられた関係、集団の中の「平和」ではないのです。秩序や原理原則やもろもろの伝統に縛られてなくてもっと自由な、また、自分の属する枠の外の人々に対しては謙遜な、さらには、誰に対しても愛に満ちた、そのような平和とは、「神さまを中心にし、キリストを一番にし、それぞれが『自分の十字架を担って』」初めて実現する平和です。自分の欲望を中心にしないのです。誰かを犠牲にして成り立つ自己実現ではないのです。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」、このイエスさまの言葉で、「わたしのため」というところを「愛のため」とあるいは「神さまのため」と置き換えると、すっと納得がいくのです。

ラヘブ牧師野講演題になっている「瓦礫から生まれたガラスの天使の物語」とは一体なんでしょう。イスラエル軍がベツレヘムとかラマだとかパレスチナの領域に侵攻してきて街や建物が破壊され瓦礫の山が出来た時、彼は住民達と共に瓦礫の中から拾ってきて彼が所長を務めるベツレヘム国際センターでガラスの破片で天使の人形を作り、愛と平和のシンボルとして平和活動に役立てているのです。ですから、講演の題は「爆弾には愛を。」なのです。

マザー・テレサが、「愛の反対はなにか」との問いに対して、多くの人が予想するように「愛の反対は憎しみです」とは答えず、「無関心です」と言われたことは有名です。憎しみがいいことではないのは言うまでもありませんが、少なくとも憎む相手として存在を認めています。それに引き替え、「無関心」はそもそも相手に関心を払っていません。もっと強く言えば、その人の存在そのものを無視している、認めていないのです。だから、愛の感情はもとより憎しみの念さえ湧かないのです。そこには打ち立てるべき平和の前提としての相手の存在すらないのです。身内あるいは仲間、同胞、利害を同じくする集団にしか目が行かないとき、イエスさまは「剣を投げ込まれ」、自分自身を切り離して最初からやり直させてくださるのです。「敵対させる」とか「敵となる」とはいささか強すぎるように響く言葉ですが、家族や民族、国家、宗教を排他的に最高のものと思っているとき、それらをとらえ直すためには、これくらい強い言葉もショック療法には必要でしょう。

そのように「キリストを一番」にする人、つまり「愛を一番」にする人、そのために「自分の十字架を担って主イエスに従う」人のことを、イエスさまはほってはおかれません。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と仰いました。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とまで仰るのです。つまり、あなたがたを受け入れる人はキリストを受け入れ、キリストを受け入れる人は神さまを受け入れるのだ、と。自分の十字架を担って愛のために生きる人、愛のために自己中心的な思いを抑えて、逆に人に仕え人と平和を築いていく人、そのような人を受け入れることは、結局は神さまを受け入れうことになると言われているのです。それほどまでに神さまはそのような生き方をする人を愛し尊び受け入れてくださるのです。

この教会の大柴麻奈ちゃんと佳奈ちゃんが、全国のルーテル教会の青少年16名とともにアメリカにワークキャンプに行きます。外国で、会ったこともなくこれまでに名前も知らず、これからも再び会うことはないかもしれない人たちのために、これまたこれまで一度も会ったこともなく、言葉もよく通じない外国の友達とともに、汗水流して働くのです。体を使い、時間を使い、お金を使って。それもまた真の平和を築くための一つの試みです。戦争がないという意味での平和ではなく、心の深いところでの平和です。キリストの平和です。

ここにいらっしゃるお一人おひとりも、それぞれの場で、キリストを一番にすることから見えてくる、真の平和を作るための営みに加えていただくために、それぞれの場でのワークキャンプに参加しましょう。それが家庭においてか、職場においてか、地域社会においてか、人々とのつながりの中でか、あるいは寝たきりのベッドの上でか、いずれであれ、キリストに従っていきましょう。そのような者に主イエスは「わたしにふさわしい者よ」と声をかけてくださるのです。

アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 7月17日 聖霊降臨後第9主日礼拝)