説教 「ヘビとハト」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 10:16-33

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」

やはりイエスさまは話し方の天才であったと思います。一度聞いたら忘れることのできないような印象的な話し方をいつもなさりました。そこには無駄な言葉、不必要な言葉が一つもない。特にイエスさまのたとえ話は優れています。

本日のみ言葉の中に「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」という言葉がありますが、これも一度聞いたら心に残り、忘れられなくなる言葉です。しかしこれがどのような意味であるのか、考えれば考えるほど分からなくなるような言葉でもあります。本日はこの言葉の意味に焦点を当てて、み言葉に聽いてまいりたいと思います。

本日の箇所は12弟子の派遣するにあたっての心得を主イエスが弟子たちに語っている場面です。そこでは迫害の予告がなされています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい」(16-17節)。

ヘビとハト、この両者は聖書では重要な役割を果たしています。ヘビは、創世記の第3章をすぐ思い起こすのですが、賢いけれども9割方悪役です。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。ハトは、ノアの箱船物語もそうですし、ペンテコステの出来事もそうなのですが、聖書では好意的に書かれています。ある意味では正反対のものを同時にイエスは提示しているのです。「ヘビのように聡く、ハトのように素直であれ」と。そこには「清濁併せ呑む」というような響きがあります。ひたむきで純粋なハトのような信仰だけを保てばよいかのように考えてしまいがちですが、私たちはヘビのように聡い信仰を持つ必要もあるのです。

『青大将プロジェクト』

「求めよ、さらば与えられん」というイエスさまの言葉はまことにその通りだと私は先週も改めて思わされました。今回の説教のために「ヘビ」について思い巡らす一週間だったのですが、するとなんと、一昨日、金曜日の朝の朝日新聞東京版にヘビについての記事が出ているではありませんか。題して『ヘビに触れればまるごと自然』。「青大将プロジェクト」というプロジェクトを紹介していました。

「ヘビは怖くて気持ち悪い。そんな先入観の克服を目指す実習が三鷹市を流れる野川周辺であった。動物飼育の専門家を養成する青山ケンネルカレッジ(本部・渋谷区)の授業で、幅広い自然観を養ってもらうことが狙いだ。最初は怖々とヘビに触れていた学生たちも次第に大胆になり、ヘビを首にまいてにっこりと記念撮影もした。」

「竹の棒先にコの字形の針がねを取り付けた捕獲器やヘビを入れる布袋などを作り、3~4人一組でアオダイショウを探した。1時間ほど川の中や草むらを歩き、8匹を捕まえた。大きいヘビは約1メートル。動物をのみ込んだのか、腹が膨らんでいるのもいた。

学生たちは教わったつかみ方で、胴やしっぽに触れた。ヘビの体はひんやりと冷たく、しっとりとした感じだ。中には好奇心から手に乗せたり、首に巻いたりする学生も現れた。参加した全員がヘビに触れることができた。・・・ヘビを嫌う感情は「無知による心の闇」が生み出すのだそうだ。「ヘビをよく理解し、愛情いっぱい、優しい気持ちで接すれば、自然観はもっと広がるはずです」とその記事は結んでありました。

ヘビを嫌う感情は「無知による心の闇」が生み出すという言葉はなるほどと思わされました。私たち自身の恐れや不安といった闇の部分をヘビに投影しているのでしょう。ヘビには責任がないと言えそうです。ヘビにとっては迷惑な話ですね。

それにしてもヘビのような賢さとハトのような素直さの両方を同時に語られるところに、私自身はイエスさまのユーモアのようなものを感じます。特に「ヘビ」という言葉には弟子たちも、私たち同様に、ギョッとしたのではないでしょうか。ヘビの権利(人権ならぬヘビ権)というものがあれば、その復権です。読み込みすぎているかもしれませんが、もしかするとイエスさまは、私たちに「無知による自分の心の闇」に光を当てるようなことをも意図されていたのかもしれません。

「ヘビのように聡く」

さて、前置きはそれくらいにして、「ヘビのように賢く」とはどのような意味かそれが語られた文脈(コンテクスト)から考えてみたいと思います。弟子たちの派遣を主イエスは「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語っておられる。それは「狼の群れに食べられないように賢くありなさい」と語っておられるのです。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」とか、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23節)とも語られています。「ヘビのような賢さ」とは、的確に自分の置かれた危険な状況をつかみ、最善の判断を行う力があるということでしょうか。コンテクストから読むならば、危機的状況に陷らないように十二分に警戒するということと、陷った場合に的確に判断するということを言っているようにも思います。

関連して想起するのはマタイ16:1-13にある不正な管理人のたとえです。それはこういうたとえです。「ある金持ちに一人の管理人がいて、この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者がありました。主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えるのです。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』『小麦百コロス』の人には『八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」そこではキリストを信じる者に賢い振る舞いが求められているのです。

清濁併せ呑む信仰

しかし肝心な点は、ヘビとハトが同時に語られているというところにあるのではないか。賢くある人はハトのような素直さを合わせ持つということがなかなかできにくいのではないかと思われます。しかし考えてみるならば、この両者の大切さは私たちが、職場においても家庭においても地域においても、自明の前提としているようなところもあります。この両者を合わせ持つようなリーダーシップを求めているのではないかと思われます。ヘビのような賢さとハトのような素直さ。清濁併せ呑むようなあり方です。

夏目漱石は草枕の冒頭でこのように書いています。「山路を登りながら、こう考えた。知に働ければ角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 まことに鋭い洞察で、確かにその通りです。理屈っぽいと角が立ちますし、感情を大切にすると流されてしまいます。意地を張ると窮屈になってしまう。なんと人の世は住みにくいことでしょうか。ましてキリストの福音を信じて生きるというのは意地をトコトンはって生きてゆくようで、窮屈至極であるような感じがしてしまいます。特にプロテスタント教会には真面目な方が多いようなので、窮屈な生き方に捕らわれている人が少なくないのかも知れません。

そのような中で主イエスは言われるのです。「ヘビのように聡く、ハトのように素直でありなさい」と。これは柔軟でしなやかな生き方への勧めではないでしょうか。しかしそこには一本の決して折れることのない芯が通っているのです。いや、逆に言ったほうがよいかもしれません。一本の芯が通っているからこそ、しなやかであっても折れないのだと。

本日の福音書の日課の中で、主は12弟子に言わています。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19-20節)。話すのは自分ではなく神ご自身の霊なのだと言うのです。だからどのような状況に置かれても心配は不要なのです。その時には言うべきことは向こう側から教えられるのだから。ここではヨハネ福音書の弁護者なる聖霊の働きを想起させられます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネ15:26)。

このような安心が私たちの中心には置かれている。この信仰の与える平安は、私たちをその存在の根底で支える一本の折れない芯であり、心棒なのです。この安心があるから、どのような状況にも対処することができる。椎名麟三が言ったように、私たちは「安心してジタバタしてよい」のです。いや、もっと言いましょう。安心してジタバタしなければいけないのです。

先日台風6号が各地で大きな被害をもたらしました。この教会でも桜の枝が何本も折れて落ちていました。落ちた枝を見ながら考えました。突風に揺れ動かされ、許容範囲を越える力がかかって、ポキッと折れてしまったのだと。同時に考えました。揺れ動くことができないとポキッと簡単に折れて落ちてしまうのだろうと。地震の時もそうですが、がっちり揺れ動かないように建物を作るとかえって地震には弱いものになってしまうのです。適度に揺れ動くことで振動を吸収することができるからです。これは電車に乗ってもそうですが、適度に振動に合わせて揺れ動くようになっているのです。そのように信仰者は硬直した生き方ではなく、柔軟な生き方が求められるのです。人間はジタバタと揺れ動くことで、風に揺れる葦のように、振動を吸収したり逃がしたりしてポキッと折れないようになっているのです。

「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。だから安心してジタバタしてよいのです。ハトのような素直さで父なる神の霊により頼んでよいのです。だからこそヘビのような賢さ(柔軟さ)で、ああでもないこうでもないと揺れ動いてよいのです。ヘビはとぐろを巻いたり、くねくねと身をくねらせながら前に進んでゆきます。あまり見ていて気持ちのよいものではありませんが、確かにいかにも柔軟で臨機応変なのです。「知に働ければ角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と言われている人の世で、清濁併せ呑むことができるような柔軟で練れた信仰者として生きるようにと私たちは招かれているのです。

ヘビのような柔軟さとハトのような素直さを共に大切にしながら、新しい一週間を歩み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 7月14日 聖霊降臨後第8主日礼拝 説教)