説教 「悪人にも善人にも」 大柴譲治牧師

マタイによる福音書 5:38-48

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題~「敵を赦すこと」

本日の主題は明確です。本日の福音書の日課の山上の説教において主イエスは「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と語られていますし、旧約聖書の日課であるレビ記19:17-18にはこう記されています。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

これほど「言うは易し行うは難し」という戒めもないだろうと思います。「あの人だけは赦せない」とか「他のことは赦せたとしてもあの行為だけはどうしても忘れられない」という思いが私たちの心の底には潜んでいる。ふだんは忘れていても、何かでスイッチが入ってしまうと連鎖反応を起こしてそれらを思い出して腹が立つということがあるのだと思います。そして、赦すことが私たちに求められていると分かっていてもできない。だからこそ私たちは苦しむことが多いのだと思います。あるいは、私たちはもう最初から自分には赦すことなどできないと開き直る以外にはない。そのような諦めに似た気持ちさえしてきます。それほどまでに怒りと憎しみというものは私たち人間の現実の中に力を持ち、それをコントロールするということは難しい。怒りと憎しみの連鎖反応というものは私たちを越えて突き動かしてしまうもののようです。

そのような私たち人間の現実の中で、何を本日のみ言葉は語りかけているのか、それを思い巡らせてまいりましょう。

「悪人にも善人にも」

自分には到底できそうもない「敵を愛し迫害する者のために祈る」ということの大切さに、天を見上げるときに突然気づかされる時があります。自分の外を見る時、突如として神の恵みが分かることがある。主は言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 太陽の恵み、雨の恵みがある。大自然の恵みはすべての人に等しく注がれています。悪人にも善人にも豊かに注がれている。大自然を見つめる時、否、自然に打たれる時に、私たちは自分の小ささ、自分の狭いこだわりなどに気づかされ、突然パーンと殼がはじけて割れるような、目からうろこが落ちるような体験をすることがあります。

かつて大阪の淀川キリスト教病院で精神科医をされていた柏木哲夫先生の話をお聞きしたことがあります。日本人が心を慰めるものに三つある、と。何だと思われますか。水と緑と魚だそうです。水と緑と魚? そう、それだからこそ日本人は日本庭園を見ると心が落ち着くのだそうです。日本庭園には苔むした緑の真ん中に心字池があって鯉が泳いでいます。水と緑と魚が揃っている。柏木先生は患者さんたちから話を聞くことの中でそれを発見して、ホスピスの小さなベランダに箱庭のような日本庭園を造られたそうです。すると患者さんや家族がその小さな庭を前にして深く心を落ち着かせることができるようになったということでした。

私は1995年から2年間滞在していたフィラデルフィアでも同じ体験をいたしました。子供が熱を出したので急いで近隣の病院に連れて行くと、そのロビーに大きな熱帯魚の水槽が置かれていました。色とりどりの魚を見てなぜかホッとしたことを思い出します。水と緑と魚、それと出会った時に深く慰められた思いがいたしました。また、昨年夏に三ヶ月滞在しホスピス研修を受けたサンディエゴでも同じです。七つの介護ホームにいる15人の患者さんを担当して週一回のペースで訪問したのですが、そのうちの二つの施設にはやはりロビーに大きな熱帯魚の水槽が置かれていました。それらの施設は総合的に見て雰囲気もよく、穩やかで、入所者たちによいケアを提供していると感じました。そのように自然は、日本人のみならず、アメリカ人にとっても心を癒してくれる存在のようです。

確かに日本では、映画でもテレビドラマでもよく観ていると、何か心が抉られるようなショッキングな出来事、悲しい出来事などが起こった直後の場面に、遠くの山であるとか、風にそよぐ森であるとか、流れる川であるとか、空を飛ぶ鳥であるとか、自然のワンシーンが映し出されることが多いことに気づかされます。川べりなどを散歩すると緑の木陰や小川の流れが本当の自分をもう一回取り戻す思いを与えてくれることを私たちは体験的に知っています。自然には私たちの心を慰め、落ち着かせてくれる何かがあるのです。水と緑と魚。確かにそれらは不思議な力を持っているようです。「野の花、空の鳥を見よ」と主は言われましたが、その言葉は(本日の日課の)天の父が備えてくださる太陽の恵み、雨の恵みと重なるように思います。

悲しみや憤りや憎悪などの激情に捕らわれている時、私たちは自分自身に囚われているのでしょうが、自分の外を見てゆくことがどうしても必要なのです。2003年の大河ドラマ『武蔵Musashi』の中で、剣の達人・柳生石舟斉が武蔵に剣の稽古をした後でこう問う場面が印象に残っています。「その時お前は風を感じたか。鳥の声、水の音が聞こえたか」。石舟斉にまったく齒が立たなかった武蔵は自分の心の中にある悔しさだけしか見えていなかったのですが、その問い掛けにハッと気づかされるのです。全く外の世界が自分には見えていなかったことに。自分は風も感じなければ、鳥の声、水の音も全く知らなかった。それに気づく。

この場面は私にとってはとても印象的でした。私たちはそのような存在なのです。自分の中にある激情に囚われている限りは、本当の事柄は見えてこない。真実が見えてくるためには、自分から目を離して自分の外を見なければならない。自分の外にある神の創造された世界を見つめ、そこに神の恵みの現実があり、自分がそれとつながっていることを見てゆくことが求められているのです。

「インマヌエルの原事実」(滝沢克己)

最初に教会賛美歌382番を歌いました。そこにはやはり被造物における神の恵みが歌われていました。

1.ここは神の世界なれば あめなる調べは四方に聞こゆ。
岩も木々も空も海も くすしきみ業をさやに示す。

2.ここは神の世界なれば 野ユリも小鳥も神をたたう。
風にそよぐ草木にすら とうときみ神のみ声を聞く。

3.ここは神の世界なれば 悪魔のちからはやがて滅ぶ。
わが心よ、などて嘆く、王なるわが神 世を統べます。

そして神の恵みが私たちを取り囲んでいることが見えてくるのは、自分の努力や修業によるのではなくて、100%向こう側から与えられる恩寵なのです。自分が無となり、自由となって、自分の執着から離れた時なのです。どうすることのできない人間の悲しみや苦しみの現実の中にあって、そしてすべてが揺れ動く万物流転諸行無常の世界の中にあって、一つだけ決して揺れ動くことのないものがある。それが神の言であり、神の愛です。

西田幾多郎、カール・バルトという東西の碩学に師事した滝沢克己という信仰者は、それを一言で「インマヌエルの原事実」と言いました。「インマヌエル」とは「神われらと共にいます」という意味です。天地が揺れ動こうともこの「神われらと共にいます」、「インマヌエル」という事実は決して揺れ動くことはない。すべての現実をその根本にあって支えているという意味でそれを滝沢克己先生は「原事実」と呼んでいるのです。

時々遠くに目を向けること。悪人にも善人にも等しく注がれる太陽の恵み、雨の恵みに思いを馳せてゆくこと。つまり自分を越えたものとつながって生きること、生かされていることを知ること。それが私たちを自分の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみに囚われていたところ(私たちの「バビロン捕囚」)から解放してくれるのだ、そう思います。それは神の聖霊による捕囚からの新しい解放なのです。

聖餐式への招き

本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとぶどう酒を分かち合ってくださったお方。その主イエスの言葉は、どのような時にも神がわれらと共にいますということを宣言する言葉なのです。昨晩は大雨が降る中でカントリーコンサートが行われましたが、雨に悩むの時にも確かに神さまの置かれた虹はかなたにあるのです。この教会堂がノアの箱船を模して造られているということは深い意味があると思います。この壁の外側には虹を見上げる動物たちが描かれています。インマヌエルという私たちを根源的に支える恵みの事実をそれは証ししています。聖餐を通して私たちはそのわれらをとらえたもう神の深き愛を確認し、怒りと憎悪の渦巻くこの世界にあって、キリストの十字架の上に成し遂げてくださった赦しと平和とを見上げて、確信をいただいて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神様の豊かな祝福がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2005年 6月5日 聖霊降臨後第三主日聖餐礼拝)