説教 「疑いと闘っている信仰」 横須賀教会牧師

マタイ福音書 4: 1-11

神に向かって生きよ

今日、私の出身教会で聖壇の奉仕を頂き、本当に嬉しく思います。特に長い間、皆さんに愛され、支えられていることを心より感謝しております。皆さんからの支えがなければ、今私が横須賀教会の牧師であることは、不可能であると思います。

私はもはや、かつて強く念願した通り、伝道の現場に立っています。この二年間の牧師の歩みを顧みれば、私は、牧会していることよりも、寧ろ牧会を通して、自分自身も改めて信仰の深い意味を味わっていると思います。

今日の聖書を見ましょう。本日のテキストは『人はパンのみにて生きるにあらず』の有名な箇所です。舞台は、誰も住まない荒野で、四十日間の断食の後です。空腹の中にあるイエス様に、『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』『神の子なら、飛び降りたらどうだ』『もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と悪魔が誘惑の言葉をかけるのです。

これらの三つの試みの言葉はどれも魅力的なもので、心巧みに私たちの心に迫ってきます。しかし、イエス様は『人はパンだけで生きるものではない』『あなたの神である主を試してはならない』『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と言われるのでした。私たちは自分が素晴らしい人生を送るためなら、自分の将来が保証されるのであれば、これらが自分のものになるのであれば、悪魔に身を売るまではしなくとも、体をいとうことなく休まず努力します。しかしイエス様は、悪魔の要求を受けずに、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と突っぱねました。言い換えれば、イエス様が『神様に向かって生きよ』と私たちに呼びかけておられるのです。

「もし……なら」という試み

イエス様への誘惑は、まさに今私たちが持っている弱さでもあります。この悪魔の誘惑の言葉は、口語訳聖書では、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じて御覧なさい』『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び下りて御覧なさい』『もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』と訳してあります。ここで『もしあなたが何々なら』という言葉は三回繰り返されています。この言葉に私はハッとしました。この言葉は私に深い考えをもたらしたのです。

実は、私たちの信仰の歩みの中には、そのような『もしあなたが何々なら』という祈りが多いのではないでしょうか。

私はこういう証しを聞いたことがあります。ある方が現実の生活をすごく虚しく感じ、自分の力でそれを乗り越えることができなかったため、教会にきて牧師と相談しました。しかし、神様が見えないし感じられないので、自分の悩みをどうしても神さまに任せることができません。最後に、家で一人で、牧師が教えてくれたように、神様にひざまずいて、「神様、私を憐れんでください。もし、あなたが本当におられるならば、私を悟らせてください」と祈りました。不思議に、祈りの後で、彼の心が初めて平安に満たされました。それ故に、彼は確実に神がいることを知り、結局キリスト者になったという証しです。

このような『もしあなたが何々なら』という祈りはよかったと思います。なぜなら、その方はその時神様をまだ認識しなかったからです。これは無知の上でのことであり罪がありません。

しかし、今日のテキストは違います。悪魔はこの三つの『もしあなたが何々なら』という言葉を言う前に、イエス様が神の子であることを既に確実に知っています。ですから、これは、あくまでもイエス様への試みであると言えます。

信仰の揺るぎ

私事ですが、今日私は自分のことを話したいと思います。特に去年の八月からの四ヶ月の間に、私の自転車が三台とも次々に盗まれてしまいました。また、全然思いもよらないトラブルも次から次へと起こってきました。家内も、皆さんがご存じのように、体の調子が突然悪くなり、今は癌であることがわかって、病院の先生に「あと一年」と宣言されました。ある日、娘は私に、「パパ、なぜトラブルが次から次へと私たちの家に続けてくるの?」と聞きました。私は愕然としました。勿論、娘は、理屈っぽい言葉は欲しくないのです。これは彼女の心に浮かばずにはいられない問題であり、私もそう考えています。

家内は友達から手紙を頂きました。その中の一部を引用します。「いつも考えることは、何であなたが苦しまなければならないのか、あなたにそんな苦しみを与えているイエス様は何を考えているのでしょう!他国に来て、努力して、大勢の人たちに光を与え救って下さっているあなたが何をしたと言うのでしょう!無信心な私には神を憎むばかりです」と。これは一人の未信者の友達からの手紙です。彼女の言葉から彼女の気持ちが熱く伝わってきます。何度読んでも、いつも涙が出ます。

誘惑に立っていること

確かに、家内のことに限らず、私たちは誰でもそれぞれの出来事の中で、そのような考えが生じるのだと思います。つまり、「神様、なぜ、私たちはあなたを主としていても、そのような苦しみを与えられるのですか。あなたは一体どう考えておられるのでしょうか。もしあなたが何々なら……」というような神様への試みです。

先ほど言ったように、悪魔はイエス様が神であるのを知っていても、依然として『もしあなたが神の子であるなら』と言いました。これは、悪魔が自己を主張し、イエス様に挑戦する言葉です。現実には、私たちも確実に神様を信じていても、時々自分を中心として、そのように祈ったことがあるではないでしょうか。

確かに、神様へ『もしあなたが何々なら』というような祈りは、純粋に神様を試すためではなく、私たちも無意識のうちに悪魔の誘惑に立ち、心が揺れている表現であると思います。

ここで、一つのイギリスの小説を思い出しました。まだ中学生の時読んだ小説ですから、作者やタイトルは全部忘れてしまいましたが、その概要をまだ覚えています。

ある少年が神様を堅く信じています。しかし、大人になって、現実の生活の中で色々な挫折にあって、神様に熱心に祈っても叶えて下さなかったので、神様がいないと思い、信仰を捨てた、という物語です。

なぜ三十何年経っていてもそれをまだ覚えているのかと言いますと、その時私も少年であり、同じ信仰を持っていたからです。特に苦難に会った時、この物語を自然に思い出します。ですから、なかなか忘れられなかったのです。言い換えれば、私の信仰は、時々揺れていると言えます。

私は神様に、『神様、もし、あなたが家内の病気を癒したなら、私はあなたのためにどう使われても、喜んで受け入れます』と祈ったことが何度もありました。深く考えれば、この祈りに問題が現されました。つまり、この祈りから、私はここまで神様に仕えても、心ではやはり無条件ではないことがわかりました。しかしイエス様は、ひたすら神様に向かって、無条件に神様に服従することを私たちに望んでおられます。

私たちは自分の思うことが神様の御心とずれていることに気づかされるとき、心が揺れ動きます。しかしこれに反して、イエス様ご自身は、悪魔の、或いは私たちの要求にも動じるところはありません。ただ、イエス様が語り、命がけで指し示している大切なものがあります。それは、旧約聖書の十戒の第一の「私をおいてほかに神があってはならない」です。つまり、イエス様はどのような状況におかれようと、父なる神様への揺るぎ無い信頼をもって語っておられるのです。言い換えれば、いつでも、どんな場合でも、神様のみに向かいます。

全国婦人連盟会長からの手紙の中でもこう書いてあります。「とは申せ、子供のこと、夫のことなど、お心の揺れる時もおありでしょう。その時のために、特にお祈りをしております」と。私は皆様の祈りが本当にありがたいのです。確実にその祈りの力を体験しています。皆様の合わせての祈りがあるからこそ、私は信仰の歩みを順調に進んでいます。

神ご自身の働き

聖書に戻りましょう。イエス様は、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』『ただ主に仕えよ』と言われています。つまり、神様に向かってだけの生き方です。ここでの『神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』という言葉は、いつでも神様ご自身が働いていることを私たちに示しています。

本当に不思議なことだと思いますが、家内は、この病気にかかってから、ずっと一言も文句を言いませんでした。ぎっくり腰の持病で、たまに文句がありましたが、二ヶ月前に、死に直面していた時にも、不思議に神様への感謝の気持だけが一杯に満ち溢れています。

ある病院の職員の手紙では、「ベッドでいつも頑張っておられたお姿から、祈りの方だなあとわかります」と書いてくださった方もいます。更に、一人の信者でない友達が家内のために祈るため、今中華系の教会によく行っています。家内自身もこの病気を通して、神様の御心をよく悟りました。私も家内から沢山のことを学びました。私は、家内のこの病気を通して、神様ご自身が働いておられることがわかります。

全ては神の恵み

同じ家内がもらった手紙ですが、あるキリスト者である患者さんがこう書いてあります。「病気ってできることなら、なりたくないけれども、でも病気になったおかげで、普通とは違った人生が送れるんです……辛い中にも『幸せ』を見つけることができます」と。本当に、人間の目での災いも神様の恵みです。

アメリカの有名な賛美歌作者ファニー・クロスビーは生まれてから直ちに父が亡くなりました。そして、六週間の時に、目が悪くなり、更に医者の過ちによって失明してしまいました。医者もその過ちのために逃げだし、行方不明となりました。

彼女はキリスト教の教育の影響で、八歳の時、次のような明るい詩を書きました。「私は目が見えなくても何という幸いな身の上でしょう/ 私はこの世では/不平を言わないことにきめました/ほかの人たちが知らない/沢山の恵みを私は味わいます/目が見えないからといって/どうして嘆くことができましょう」と。

彼女は失明を神様の恵みだと感じ、神様に服従しました。幼い時に治療を誤った医者に感謝したいと、後にその所在を尋ねたと言われています。

彼女の心はいつも信仰による喜びが湧いていましたので、その顔は輝いていました。人々が彼女のそばに行きますと、その喜びが「感染」したと言っていたそうです。

神の働きに頼る

それはただ彼女が強い心を持っているというわけではなく、それは神様ご自身の働きの結果であるはずだと思います。実は、私たちの信仰の歩みは、疑いと闘いながら進んで行くに過ぎません。神様ご自身の働きがなければ、私たちはいつでも神様に向かって生きることは不可能です。まさに、神様ご自身の働きによって、あのアメリカの賛美歌の作者は災いを神様の素晴しい恵みとして受け取れました。

家内も、まさに神様のお支えによって、災いを体験していても、その災いから神様の恵みを味わいました。本当に、私たちには耐えられないような試練にあわせず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さるのです。私はそれを新たに体験しました。それを信じて、確実に慰められます。

今、イエス様は、『神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』『ただ主に仕えよ』という言葉によって、神様に完全に向かおうと、私たちに呼びかけておられます。これを心にとめ、励みにし、これからの道のりを改めて勇気を持って歩んでいきましょう。

御一緒にお祈り致しましょう。

御在天の御父様、今日の御言葉を通して、私たちはどんな誘惑に立っていても、あなたがずっと私たちを守ってくださっていることが分かりました。どんなことにあっても、実は、全てはあなたの恵みです。どうか、いつでも、私たちはあなたに向かって生きることができますように。また、全ての事を通して、あなたに栄光を帰する事ができますように、私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によって、お祈り致します。アーメン。

(1999年2月21日 なお、この日は横須賀教会との講壇交換が行われた)