教会と歴史(13) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)もともと詩編は、巡礼をしてやってきた人々がとうとう最後にエルサレムに着いた。そして城門を開いて下さいと呼び掛けている。それに対してエルサレムの城壁の中から「あぁ、よくいらっしゃいました。祝福がありますように、主のみ名を慕って来た人々に」と、内側から祭司たちだか先に到着した人々か知りませんが応じている、そのように内外で歌い交わしているわけです。ところが新約聖書にもこのところが引かれています。マタイ21章という大事なところです。エルサレムにイエスさまが最後にお入りになったときの記事です。9節には「群衆はイエスの前に行く者も後ろに従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ、主のみ名によってこられる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ』」とあります。118篇の詩編が引かれているのですが、しかし状況は全く違って、ひっくり返っています。詩編は祭司がやってくる巡礼たちを神殿の中から迎えています。ところがマタイでは神の側からイエスさまがやっておいでになる。エルサレムの人々は神からのみ子を歓迎して迎えるための歌として、この歌が使われているのです。

 外的な神殿の中から、後からくる人を迎えるのでなく、神殿のあるエルサレムにむしろ外から神のみ子がやっておいでになる。それを私たちの内におむかえしましょうと言っているのです。しかも23章を見て下さると、終わりの部分に「言っておくが、お前たちは『主のみ名によって来られる方に祝福があるように』と言う時まで、今から後、決して私を見ることはない」と記されています。いわばイエスさまはエルサレムのために嘆き、怒っているのです。

 私たちがなにげなく歌っているところも、詩編の言い方と新約の受け取り方は違う。そして主イエスは同じ言葉で嘆いておられる。私たちは「歌っていますよ、イエスさま。ちゃんと歌っています。どうぞ来て下さい」というつもりで聖餐式の中で歌うのです。とすると古い詩編の言葉を受け継ぎながら、その後の受け取り方を踏まえ、長い教会の礼拝の歴史の中で伝えられてきた気持ちを受け取って行かなくてはならない。そして今の私たちの信仰の告白として歌っているわけです。それだけの作業を、実に一挙にやっていると言えます。そうであれば、やはり少し具体的に歴史のことも知らなくてはならないということになるでしょう。(続く)

(1996年10月)