1-B. 礼拝の場となるもの、ならないもの




(東教区出版部発行ブックレット『喜びごと悲しみごと』1976年 5月 1日より)
むさしの教会元牧師で、ルーテル学院大学元教授(牧会カウンセリング)
賀来周一牧師によるやさしいキリスト教冠婚葬祭入門です。




1-B. 礼拝の場となるもの、ならないもの

冠婚葬祭の中には、大きくわけてたんなる行事で済ませることができるものと、私たちの立場から考えて、礼拝の場となるものに分けることができます。おそらく、冠婚葬祭の中で、冠と祭は行事として考えることができるでしょう。それに対して婚と葬は、どんな人であっても、そこを通過しなければ、社会的に受け入れられない面をもっている以上に、いちばん基本となる考え方のところで、聖書とふれ合うものをもっています。婚には、男と女の理解のこと、あるいは、人間そのものについて、あるいは家庭について、聖書の理解に立たなければ、キリスト者としての婚とはなり得ない面をもっています。葬についても、同じことが言えるでしょう。葬には、死の理解や、死後の考え方をきちんとしなければなりませんし、死に伴っての悲しみ、苦しみについての受け取り方も、聖書的であることが求められます。

こうして、婚や葬では、私たちのキリスト者としての信仰そのものが問われる場ともなります。たんなる行事慣習のたぐいであれば、とりきめ方をきちんとすればということでおさまる面もありますが、信仰が基本的に問われ、かつ、信仰の告白となることを考えれば、婚や葬は、礼拝の場とならねばなりません。

礼拝の場としての婚や葬、この受け取り方はたいへん大切です。礼拝であると考えておけば、それを原則として、いろいろなしきたりや、飾りもののたぐいにいたるまで自然に定まってきます。そしてまた、ことに、日本という風土の中では、教会の礼拝が伝道的な性格を強く持っているのと同じに、婚や葬も伝道的な側面を自然に帯びるようになるでしょう。最近、世界ルーテル連盟マスメディア研究所で行った受洗者動機調査の中にも、キリスト教に最初にふれた機会として、教会での結婚式や葬式というのがかなりありました。このことを考えると、婚や葬を、たんなる行事、慣習の中で受け止めるべきであないのです。きちんとした礼拝であることを考えながら、全体をとり仕切る必要があります。それによって参列した人々は、婚や葬に対する正しい聖書の説き明かしを聞き、当事者の信仰の告白を聞くこととなるのです。

最近、塩月弥栄子さんの冠婚葬祭入門がでれ以来、いろいろな冠婚葬祭に関する本がでるようになりました。そして、ほとんどの本にはキリスト教ではこうしますと書いてあります。しかも、カトリックではこう、プロテスタントではこうとよくまあ調べたものだと感心するばかりです。キリスト教式ということを書かなければならないほど、キリスト教の勢力も伸びたのかなと喜んでいるのですが、喜んでばかりいるわけにはいきません。たいていの場合、キリスト教では、こうすると書いてあっても、そうしなければならないというものは、何ひとつありません。たとえば、キリスト教の葬式ではつきもののような献花についても、どうしてもすなければならないといったものではありません。もし、私たちが、慣習や、行事のたぐいとしてキリスト教の冠婚葬祭のことを取り上げると、その結果としては、私はこうするとか、この教会ではこうするといった取り仕切り方についての意見があれこれ出ることになります。それでは、何か新しいキリスト教式と言われる慣習行事を導入することになってしまって、かえって世間に混乱を引き起こすことになってしまいます。

私たちにとって、必要なことは、新しい慣習行事のたぐいではなくて「礼拝」です。礼拝を通して、本当の意味の喜びや慰めや、愛することや、死ぬことを知るのではないでしょうか、そして、そこにこそ、真の信仰の告白も生まれると信じるのです。実際、はじめて、教会の結婚式や、葬式に出た人たちが、「教会での結婚式はいいですね」とか、「私は死んだら教会で葬式をして貰おう。教会での葬式は、本当に死の悲しみがよく分る」とおっしゃるのをよく聞きます。そこには、すでに教会が婚や葬をしきたりということを超えて、礼拝となっているひとつのしるしを見る思いがするのです。結婚式や葬式は、「式」でなくて、「礼拝」であることを考えておきたいと思います。

もちろん、結婚や、葬儀以外に、礼拝となるものもあるでしょう。たとえば、婚約式や、故人の追悼記念、七五三にちなんだ小児祝福式、定礎、上棟など、礼拝としての場を持つことのできるものもあります。その場合にも、やはり、事柄が、いったい何であるかをはっきりして、礼拝のかたちをととのえねばならないのです。けれども、本来の結婚式や、葬儀の場合とは異なって、大切であっても、それがなければならないというのではありませんから、それなりに、自由な裁量がはいってくる余地が多分にあります。

けれども、まったく、礼拝とは無関係に、たんなる習俗、行事といったものもあります。た問えば、岩田帯、赤ちゃんのお七夜、食い初め、初節句、成人式、還暦、古希喜寿、米寿、白寿、などの個人にかかわる行事、そしておそらくは、祭の部にぞくするであろう正月行事や、お雛さま、七夕、仲秋の名月に、年越そばなどの年中行事がそうです。こうしたことは、守らなければならないといった世間的なきまりもありませんし、信仰的なこととも関係がなく、私たちが日本人として当然そうあるものなのですから、それほど気になることではありません。ところが、なかには、いわゆる迷信、俗信とかかわっているものもあります。これらに対しては、もちろん、私たちはきっぱりした態度をとるべきですし、言うまでもなく否定されるべきでしょう。たとえば、運勢暦、おミクジなど占いごとのたぐい、厄払いや、理由のない忌みごとたとえば三隣亡や友引、仏滅のたぐいは、それにあたるでしょう。気にしる人にとっては、一生の大事なことのように思われても、キリスト者であるものにとっては、神さまの摂理がすべてですから、これらのことは自ずと無意味になってしまいます。