説教 「キリストが土台!」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マタイによる福音書 7:15ー29

最初の児童説教

「山上の説教」の最後に位置する「家と土台」のくだりは、私にとって懐かしい段落である。洗礼を受け、教会学校の教師となって最初に児童説教を担当する段になって、日課から離れ、敢えて自分で聖句を選んでした児童説教だった。教師会では「土木工学科の学生ですから」と言ったと思う。基礎の問題を人間のあるべき姿の基礎に置き換えて自分でも考えたかったころのことである。めったに行かない大学図書館まで出掛けて行って、英語の注解書を借り出し、しっかり勉強もした。

三つの段落

しかし「山上の説教」はこの段落だけで終わっているのではない。この主日日課の選び方では、「山上の説教」が連続する三つの段落で終わると理解していることがうかがわれる。「良い木がよい実を結ぶ」と教えられる。不法に主の名を唱える者が斥けられている。みことばに聞いて、生きるということは、しっかりした岩の上に家を建てることになぞらえられる。

すべてはキリストの名により、キリストを土台として起こるという一貫したメッセージである。そのことは単に形式の問題ではない。名が口に唱えられることではない。キリストの名によりキリストを土台としてことが起こるというのは、キリストの心を心として、ことが起こるということである。これが三つの段落を一貫しているイエスのメッセージである。

神の臨在

「山上の説教」の教え全体、とりわけこの最後の三つの段落を、マタイ福音書はいわば信仰告白のような、キリスト証言で結ぶ。なぜすべてはキリストの名により、キリストを土台として起こらねばならないのか、その奥義を明かしているといってもよい。最後の二節の中にそれを示す三つの単語が仕込まれているのである。

「語り終える」は直訳すれば、「語りを完成させる」である。そこにはこのイエスの教えをもって、神による完成が到来したことが示されている。終末の完成である。「山上の説教」は神による終末の完成の先取りなのである。

だから群衆はその教えに「非常に驚いた」。福音書においてこの表現は、「非常に恐れた」という表現と並んで、イエスにおける神の顕現、神の臨在に触れたときの、人々の反応を表す独特の表現である。イエスの教えを聞いた群衆は、そこで神ご自身が語っておられることを身をもって体験したのだった。

この教えはだからまた、「権威ある者」、これまた直訳すれば「権威を持つ者」の教えとも受け取られた。新約聖書が「もろもろの権威」と複数形で語れば、神の下に位置する権威である。これに対して権威が単数で出現するところでは、この権威はまさに「神の権威」を意味する。「山上の説教」を語られるイエスはここでまさに「神の権威を持つ者」として語られたとの証言である。

「山上の説教」を聞くべき、目の付け所が明らかになる。キリストに注目して、ここで語られていることはキリストにおいて成就すると信じることである。さらにキリストにおいて成就することによって、神によるこの世界の完成が実現することの始まりが高らかに告げられていることへの注目も重要である。私たちはこれに「アーメン」と感謝をもって応じるのみである。

(1996年 6月23日 聖霊降臨後第4主日)