説教「日々新たにされて~2008年の初めに」大柴譲治

エレミヤ書 24:1- 7

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

年頭のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。一年の初めに宮詣をもって始めることができることは大変幸いなことかと思います。

ただいま歌いました教会讃美歌の213番は、これはルーテル教会の方が作られた、日本の、メイドインジャパンの讃美歌でございまして、五、七、五、七、七となっていることにお気づきかと思います。

教会讃美歌213番(作詞:吉田康登、作曲:山田実)

1.朝露に 輝き咲ける 野の花は
さやかにたたう み神の栄え。

2.野の花は ソロモン王の さかえにも
まさるを見よと わが主のことば。

3.野の花を かく装います みこころは
われらの滅び み捨てたまわず。

4.草は枯れ 花は散れども みことばは
とこしえまでも いのちを与う。

5.み言の つきぬ命に 生ける人
いざほめうたえ 恵みの神を。

(元旦に)大変ふさわしいみ言葉であると思います。草は枯れ、花は散れども、主のみ言葉はとこしえまでも変わることはない。今日の使徒書の日課にもその言葉がございました(1ペトロ1:24-25)。

私たちは、さまざまな出来事に取り囲まれています。喜び事や悲しみ事や、様々な困難、あるいは行き詰まりが、私たちの内外を貫いて、私たちを圧倒するような形で押し寄せて来ることがあろうかと思います。「草は枯れ、花は散る」と。私はいったい何者なのか。本当に(自分は)傷ついた葦にすぎない。消えかかった灯心にすぎない。ロウソクの炎にすぎないではないかと。そう思わせることが人生の中にはあろうかと思います。しかし、そのような私たちに、主はその命のみ言葉を、万物が揺らぐとも決して揺らぐことがない命のみ言葉を備えてくださっている。そのことを覚えたいのでございます。

主を讃美する存在

詩篇の102編の19節にはこういう言葉があります。「後の世代のためにこの言葉は書き記されなければならない。『主を賛美するために民は創造された』」。主を讃美するために、私たち人間が創造されている、命を与えられているということ。主に向かって喜びの歌を歌う。そのためにこの命が与えられている、生かされていることを覚えたいのでございます。

「神は土の塵で人を創りその鼻に(生命の)息を吹き入れられた。すると人は生きるものとなった」。創世記の2章にそう書かれています。また、「人は神のかたち(似姿)に創られている」。創世記の1章にはそう書かれています。つまりそれは、私たちが神さまとの関係の中に生きるように、神さまに向かって生きるように、神さまを中心として生きるようにということ、最初からそういうふうに創造されているのだということを聖書は語っているのです。

そのことは、神さま側から見るならば、どのようなときにも、神が私たちと共にいてくださる「インマヌエルの神」である。「わたしはあなたを決して見捨てない。わたしは必ずあなたと共にいる。たとえ死の影の谷を行くときも、わたしはあなたと共にいる」と、神さまはこのように宣言してくださっているのだと思います。

いつも耳を澄ませば、向こう側から神さまの呼び声が届いてくる。響いてくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。洗礼において、イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けた時に天が開いて、そのような天からの声が響く。聖霊がハトのように降る。私たち一人一人が洗礼において、そういう神さまの確かな是認の声を聞いている。だから、どんなに為ん方尽くれども望みを失わず(2コリント4:8-9)。どのような苦難が私を襲おうとも、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すということを、私たちは知っているのであります(ローマ5:3-4)。

耳を澄まして、向こう側から響いてくる私たちに向かっての神さまの声、「汝よ」と呼びかける、「わが愛する子よ」と呼びかけてくださるお方の声を聞きながら、この新しい一年を始めてまいりたいとそう思います。

イチジクの変貌~パウラス先生の愛

今日は、「イチジクのたとえ」がみ言葉で与えられています。

あるぶどう園に実を実らすことができないイチジクがあると。このイチジクとはおそらく私たち自身のことでありましょう。神の言葉をきちんと聞いていくことができない、それに従い、良い実を結ぶことができないでいるイスラエルの民。それは、私たち一人一人の姿を表していると思います。主人は園丁に言います。「もう3年もの間、このイチジクの木に実を探しに来ているのに、見つけた試しがない。だから切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか」。

3年間というのは、ちょうど、イエス様の公の生涯、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ、というその福音の活動をなさっていた3年間と重なります。一つも実を結ぶことができないでいるそういう人間の姿。神さまの言葉を聞きながらも、良い愛の実を結ぶことができずにいる私たちの姿がそこにあります。

しかし園丁は、そのイチジク畑の主人である神さまに向かって、こう執り成しの言葉を語ってくれるのであります。「ご主人さま、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥しをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめならば、切り倒してください。なんとか一生懸命世話をします。来年こそは実を実らせることができるように、懸命に努力をしますから、どうぞ忍耐をもって待ってください」と。私たちのために執り成しをしてくださるのは、イエスさまご自身であろうかと思います。「もしそれでもだめならば、切り倒してください」と言いながら、しかし私たちの代わりに切り倒されてくださったのもあの十字架の主イエス・キリスト、そのお方であったと思います。

私が神学生のときに、熊本教会でインターンをしていたときの話は何度か申し上げたことがあります。モード・パウラス先生というアメリカから来た婦人宣教師が慈愛園を始められました。今は総合社会福祉施設になっていますけれども。そこには子供ホーム、そして乳児院、老人ホーム、特別養護老人ホームなど、さまざまな施設があります。

そのパウラス先生は毎朝子どもホームで朝礼をしたそうです。その時の話を私はいつも思い起こす。私がインターンをしていた時、熊本教会でオルガニストをされていた伊豆永さんという男の方がおられました。もう70歳を越えておられた方です。この伊豆永さんは子供ホーム育ち。この伊豆永さんから聞いた話であります。

ある時、自分が小さかった頃、子供ホームの誰かが近所で盗みを働いたということが分かったそうです。パウラス先生が朝礼のときに、鞭を持って出てきた。そして子供たちにこういうふうに言った。「あなたたちの誰かが罪を犯しました。罪は罰せられなければなりません。だから、私はあなたたちに罰を与えます」と言って、その鞭を持って自分の腕を血がにじむほどたたき続けたのだと。忘れられないエピソードだったと伊豆永さんはおっしゃいました。

神さまの愛が本当に迫ってきた。罪に対する罰を私たちに負わせるのではなくて、その身代わりとして、独り子イエスさまを送ることによって、その罪の木を切り倒し、そして切り倒されたその切り株から新しい若枝が、救いの若枝が育って行ったのであります(イザヤ11:1-2)。

パウラス先生のこのエピソードは本当に私の胸を打ちました。真の愛こそが私たちを悔い改めの涙に導くのだということを教えてくれたエピソードであります。

ルターはキリスト者の生涯は日ごとの悔い改めであると言いました。毎日が悔い改めだと。昨日、悔い改めたからいいということではない。毎日新たに、神さまとの関係の中に、私たち自身が新しくされる必要がある、というのであります。悔い改め(メタノイア)というのは方向転換、神さまへの方向転換であるとも言われます。

でも、さらに言いたいのは、(メタノイアとは)方向を神さまの方に向けるだけではない。それだけでは足りないだろうと思います。主体の転換。「もはや生くるのは我にあらず。キリストが我のうちにありて生くるなり」と、パウロがガラテヤ書の2章の20節で言ったように、神さまが私の中にあって生きてくださる、そのような主体の転換がそこでは告げられているのだと私は思います。

無力さにおける脱皮~ロブスター

実を実らすことができないイチジクが、豊かなキリストの愛の実を実らすことができるイチジクへと変えられていく。今日のエレミヤ書の24章の言葉はまさにバビロン捕囚の中で失意のどん底にあるイスラエルの民が、神さまによって、良い実を結ぶ祝福されたイチジクの実に変えられるということが、宣言されている箇所でありました。

「エレミヤよ、何が見えるか」。「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません」。祖国を失ってバビロンへと連れて行かれるその途上で、もうボロボロになった、もう自分はどうしてこのような辛い体験をしなければいけないのか、と思っているただ中で語られた言葉であります。

「イスラエルの神、主はこう言われる。『このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る』」。

真心をもって神のもとへ戻る。これが神さまの恵みのみ業であります。このような生き方が私たちに備えられている。そのことを覚えたい、心に刻みたいと思います。

ロブスターは脱皮をするときに、大きく成長していくために脱皮を繰り返していかなければなりませんけれども、脱皮をするときには一番弱い姿をさらすと言われています。固い殻を脱ぐことも大変です。脱ぐことができなければ死んでしまう。しかし、ひとたびその固い古い殻を脱ぎさったあとは、24時間は柔らかい外皮のままで、敵に襲われたらひとたまりもないそうであります。しかし、その24時間で、大きく水を吸って、だんだん殻が固まっていって、一段大きく成長していく。

私たち人間の霊的な成長の姿というのも、それと同じではないかと私は思います。自分の弱さ、自分の破れ、自分の行き詰まりや、罪や恥といったもの、どうしようもないそういうものを、トコトン見つめて、そこから逃れず、そこに踏みとどまる。そのときに、私たちは新しい命を与えられるのだと思います。

「弱い時にこそ強い」(2コリント12:10)というみ言葉は、まさにそのような事柄を表しているのではないでしょうか。自分のどうしようもない弱さを見つめる。どうして自分はこんな人間でしかないのか。あの放蕩息子のたとえもそうですね(ルカ15章)。自分は息子失格だ。雇い人の一人にしてもらおうと思って父親のところへ戻っていく。そのような息子を、遠くから見染めて走り寄ってひしと抱きとめる、その父親の愛に触れたときに、放蕩息子は本当の意味で心の底から新たにされて、悔い改めの涙を流すことができたのだと思います。

キリストの愛に圧倒される思いを持って、それを私たちの中心に置いていただくこと。これが私たちの今日確認したい歩みであります。

2008年度の年間主題:Concentration

昨年一年間の教会の年間主題は「コミュニケーション」、心と心をつなげていくことの大切さを謳ったコミュニケーションという言葉でありました。

今年2008年は「コンセントレーション」、「集中」あるいは「専心」という言葉を一年間の主題として掲げたいと思います。Concentrationというのは、con(cum)というのは「何々と共に(with)」という接頭辞ですね。centrumというのは「中心」あるいは「核心」ということであります(center)。中心に向かって、中心と共に生きる、Concentrateする、そういう一年でありたいのであります。

私たちの命の中心は、私たち自身ではなくて「神さまのみ言葉」であり、その「生けるみ言葉」であるあの(ステンドグラスに描かれた)羊飼い「主イエス・キリスト」であります。「もはや生くるのは我にあらず。キリストが我のうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。キリストが私たちの生命の中心にあって生きてくださる。その思いを日々深く覚えながら歩んでいきたい。コンセントレーション、日々キリストによって新たにされていく。(そのように)私たちはこの一年間を過ごしてゆきたいのでございます。

実を実らすことができないイチジクのために、十字架に命を捨ててくださることによって、このようなイチジクを、キリストの豊かな愛の実に与らせる良いイチジクへと造り変えてくださるこのキリストの愛のみ業を覚えたいと思います。

自分の弱さとか、破れとか、行き詰まりとか、罪とか恥を、私たちは怖れずに、その中に、そのただ中に降り立ってくださるキリストと共にご一緒に歩んでまいりましょう。「あなた方は朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ2:22)。こう言われているからです。

「人はみな草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。そう使徒書の日課に書かれていた通り、キリストの命が私たちにおいて、私たちを通して満ち溢れていきますように。そしてこの暗い時代に、キリストの光が私たちを通して、輝きわたりますようにお祈りをいたしたいと思います。

祈り

ひとこと祈りましょう。

天のお父さま、

あなたのみ言葉をもって、一年を始めることができた幸いを覚えて感謝いたします。2007年がさまざまな出来事があったように、この新しい年もどのような年になるか、まったく先が見えない、そういう一年であろうかと思います。しかしながら、私たちはそのような中にあって、ただあなたのみ言葉に、生ける命のみ言葉である主イエス・キリストに依り頼んでまいります。どうぞ私たちの日々の生活をあなたが豊かに祝福をして、あなたの栄光を現わしてください。

主を讃美するために私たちが創造されているということを、そのことを深く味わい知る一年の歩みでありますように。

ここに集められた一人一人の上に、そしてまた今日来ることができずにいる兄弟姉妹方の上に、また特にご入院をされておられる方々の上に、看病に当たっておられる方々の上に、体調を崩されている方々の上に、どうぞあなたの慰めと癒しと救いのみ業を豊かに備えてくださいますように。

一人一人の心のうちにあります祈りに合わせまして、私たちのために十字架に架かり、死して甦ることによって、永遠の命にいたる門を開いてくださった主イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

「感謝の歌」アナウンス

どうぞおすわりください。それでは感謝の歌として教会讃美歌の49番、これもルーテル教会の讃美歌です。メイドインジャパンの讃美歌ですが、教会讃美歌の49番「新しい年を迎えて」をご一緒に歌いましょう(作詞:江口武憲、作曲:山田実)。

(2008年1月1日 元旦礼拝説教。 テープ起こし:山口好子姉)