説教 「見えない世界と信仰」 青山四郎

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。




降誕日、クリスマス

 私たちは見える世界に生きている。自分を取りまいている家庭の親子兄弟、社会、仕事、生活から始まってあらゆる科学、文化、宗教に到るまで、ほとんど果てしがない。しかしよく考えてみると、見える世界の裏には、見えない世界が意外にひろがっている筈なのだ。それは神の世界、信仰の世界である。

 聖書を何度も読みかえしていると、見えない世界が少しずつわかってくるような気がする。その一つはクリスマスであろう。

 この頃町に出て驚くのは、クリスマスの飾りである。アドベントにもならない十一月のなかば頃から、東京の町はクリスマスツリーで飾られクリスマスキャロルが歌われ、クリスマスの特売がデパートをにぎわしている。いよいよクリスマスイブになると、銀座の店にはクリスマスケーキが山とつまれ、沢山の人々がそれを買って家に急いでいる。家庭の人々は、楽しいクリスマスパーティーのひと時を楽しむのだろう。ところが日本人の不思議な処は、クリスマスがすむと、さっと飾りを取りはらい、神棚や仏壇をきれいにしてお正月を迎える準備を始めることだ。日本人にとって、クリスマスは一体なんだろうと考え込む。

 聖書を広げてみると、まずイエスのお誕生だろう。イエスの母マリヤは、名もない田舎娘であった。このマリヤに天使が現れてイエスをみごもることを伝える光景は、沢山の画家が名画を描いていて、今では有名だが、実はマリヤ一人の秘密であり、感激であった。エリサベツ訪問のことも、二人だけの喜びにすぎなかった。ベツレヘムの降誕(クリスマス)も、誰も知らない馬小屋で、人間的にはいちばんみじめな場所で、こっそりマリヤはイエスを生んでいる。

 その時、無学だっただろうけれど、純真な数名の羊飼いだけは、天使のうた声を聞き、馬小屋を尋ねて喜んだ。また三人の博士たちは、はるばるイエスを尋ねて、宝物をささげた。いま聖書を読んでみると、この二つの事件は、大変大きなことのように考えられるし、また確かにそうであった。しかし、これは今の私たちには深い意味があるが、当時としては一般の世界の人々とは無関係なことであり、馬小屋にいたマリヤとヨセフの二人だけの喜びであったに違いない。

 イエスの母マリヤも、マリヤの愛につつまれて貧しい家庭に成長されたイエスも、どちらもこの世の見える世界に生きながら、恐らく隠された見えない神の世界につつまれて、そこに一番大きな喜びを実感しておられたに違いない。

 ルターと親しかった画家、クラナッハの面白い木版画がある。これを見ると、二十六枚の版画で、『受難のキリストと反キリスト』という題名がつけられ、イエスの生涯とローマ社会の支配者であるローマ教皇の生活ぶりが、皮肉たっぷりに描かれている。最初の「受難のキリスト」は、多くの人に尊敬されて王様になって下さいと言われているのをふり切って逃れておられるイエスの姿があるが、「反キリスト」の教皇は、地上の権力を持ち、まわりに大砲まで描かれている。五図ではイエスは弟子達の足を洗っているが、六図の反キリストの教皇は、まわりの人々に自分の足を接吻させている。十一図では、イエスは苦しい十字架の道を歩かれるが、十二図の反キリストは、美しく飾られた乗り物に乗って、多くの人々にかつがれて行く。二十一図のイエスは、この世のもののために来たのではない、という姿が描かれているが、二十二図では、教会は地上のすべてのものを持っている。最後の二十五図ではイエスはこの世から天に上げられるが、二十六図では、教皇は地獄に落ちていく姿が描かれている。

 当時は宗教改革で教会が大いにゆれ動いていた時代である。クラナッハが示しているように当時の教皇は教会だけでなく、一般の世界にも大きな権力を持っており、国王が教皇に会うために教皇庁の門前にひざまづいた事実が残されている。これでは教会は地上の見える世界に大きな力を発揮していたことが第一で、一般の信徒は、ただ司祭に言われるだけのことをして、見えない信仰の世界のことには無関心であった。宗教改革の時の免罪符の販売のことは、最もよくそのことをあらわしている。つまり免罪符を買えば、天国に入ることが出来ると宣伝され、ああ、そうかと、たくさんの人々が群がって購入して安心しきっていた。こんなことがルターの宗教改革の大きな原因になっている。

 こんなことを考えていると、人間というものは、どうしてこう直ぐに見えるものに頼るのであろうかということがわかってくるような気がする。ベツレヘムの馬小屋の中でのイエスの降誕は、ただこれを喜ぶのではなく、そこに隠されている見えない世界に入り込むのが大切のように思われる。それは一体どんなものであろうか。

 まず大切な点は、見えない創造主が、罪に苦しんでいる人間に愛の手をひろげて、これを救うためにみ子イエスを地上に送られたことである。これは見えない世界に私たちの目が開かれることによって、はじめてどうしてイエスが馬小屋でお生まれになったかが少しずつわかってくる。見える世界の問題としては、実際はまことにみじめな出来事である。とてもクリスマスツリーを飾って、ご馳走を食べるような楽しいことではあるまい。そして信仰の目が開かれてくると、私たちのために十字架の苦しみをうけられたイエスの生涯の第一歩は始まることが明らかになってくるに違いない。

 次に大事なことはマリヤの喜びであろう。田舎の生活になれていたマリヤにとっては馬小屋にイエスを寝かせることは、それ程いやな思いではなくて、むしろ喜びであったに違いない。窓から星の光が射し込んでくる。貧しい羊飼いが喜んで訪ねてくれる。それで充分であったであろう。それは、マリヤがイエスを身ごもったとき、エリサベツを訪ねて共に喜び、有名なマグニフィカトを残したことでよくわかる。マリヤには、この世界よりも目に見えない神様の世界の方がよくわかっていたようだ。

 マグニフィカトを読むと、マリヤは自分のような卑しい女を心にかけて下さったことを見えない父なる神に感謝しているし、その神は高慢な者を追い散らし、権力ある者を王座から引き下ろし富んでいるものを空腹にし、卑しい者、飢えた者に愛を注いで下さる、としるされている。なんという素晴らしいマリヤの信仰、見えない世界への心の広がりであろうか。こういう女性であったからこそ、父なる神はマリヤをイエスの母として選ばれたのであろう。私たちも、まずマリヤのような信仰の世界に心を広げていくことが、今こそ一番大切であろう。

 クラナッハの受難のキリストと反キリストの木版画は、教皇に対するなかなか厳しい問題を投げ掛けて、ルターの宗教改革の運動を助けている。ルターの著書を色々広げてみると、人間は信仰によって生きるのだから、目に見える教皇の権力や免罪符などに心を奪われるのではなく、罪を懺悔して神の見えない世界に目が開かれ、救いのめぐみにあずかることがどんなに大切なことかが、いろいろしるされている。

 クリスマスを迎えて一番大切だと思うことは、ただメリークリスマスと言って喜びあうだけでなく、そこには思い掛けないような見えない世界がひろがっており、それは十字架の受難の苦しみに通じるきびしい神の愛の世界であることをよく見極め、そこに飛び込むことであろう。

 こんなことを考えていると、クリスマスとは単なる喜びではなく、キリストの誕生によって、私たちの信仰の目が広く深く広げられるし、人生の苦しい本当の歩き方を教えられるのではあるまいかと思わされる。目に見える世界と見えない世界が、思いがけずクリスマスによって示されているのは意味深いことである。

(1987年)