説教 「主のみ手の中にある者」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版

です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。

s.d.g.(大柴記)




▼全聖徒主日▲

「主のみ手の中にある者」   石居正己

「まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。」(申命記33:1-3)

夏の旅行の写真を整理してみると、いろいろな墓地を訪れていることに気づいて興味深く感じた。その中にある多くのところが観光バスなどで、特に見るべき、記念すべき所として、見学したところでさえある。

砂漠の中に、何千年かの神秘をひめて立っている壮大なピラミッドは、そこで働いた無数の人たちの運命をのみこんで、王と王妃のための墓石として残っている。しかもいろいろな人たちによってあらされて、暗い空虚な部屋が空しくとり残されているだけである。墓室から外に通じる小さい穴があって、石をつみ上げてつくったのに、よくもまあこうした細工がなされたものだと思わせられる。それは、遺骸をはなれた魂が、帰ってくる時の通路として考えられたのである。

ローマの地下には、初代教会の信徒たちの墓であるカタコンベが残されている。せまい岩穴の両側にきざみこまれたたなに、彼らの信仰を示すさまざまなシンボルがきざまれている。

ナチスの迫害のもとで倒れた信徒たちの墓。コペンハーゲンのポプラ並木に囲まれた平和な墓地。香港のキリスト教連合会の墓地には、入口に供物をささげたり、爆竹をならしたりなどしてはならないと、こまかい注意書きがしてあったほか、墓石のひとつひとつに故人の写真をやきつけた陶器がうめこまれていて、興味深い。

人間が生きるところには、また死がある。人間の生活、人間の歴史、人間の社会には、つねに死と墓とが共存している。

北欧の田舎にあった中世からの教会には、その地下が墓地となっていて、三階になった墓地の一階は、すでに古い時代の人々の、無数の遺骸が、ちりぢりの骨となって散乱していると教えられた。その同じ場所で、聖日の度に、いまも変らず生ける神への礼拝が行われている。人間のうつり変りをこえて、永遠の神のもとにある望みと確信が、そこには生きている。

申命記33章は、信仰の偉人モーセの遺言である。モーセは、ピスガの山の頂から、約束の地を望み見ることを許されただけで、自らその地に入ることはできず、召されていった。モーセの墓は、「今日まで知る人はない」と聖書がしるしている。

しかし、このモーセの死にあたっての言葉は、いろいろな意味で注目に値いする。彼は、約束の地に自ら。入れなかったことをなげいたり、自分は一足先に天に行くのだ、というような感慨を述べたててはいない。彼が言うのは、主がこられるということ、主がその民を愛せられるということ、すべて聖別された者が主のみ手の中にあるということである。

人々を残して、モーセはひとり神のみもとに行くとはいわず、この現実の中に、神がこられると言う。死と墓の現実は、いつの時代にも人間からはなれない。嘆きと悲しみとをもたらさずにいない。神の存在から、最もはなれた状態であり、最も遠い現実である。しかも、その死の中に、墓の中に、死と墓に飾られた人生へ、主がこられると、モーセはいう。かっては、祈りに?えて助けを与えられた神が、今や沈黙し、自分は淋しく死んでゆくのだ等とはいわない。

主は、われわれにむかってこられ、その民を愛せられる。どのように無名の、とるに足らない者であっても、神に愛される生命の持ち主である。神が生命を与え、キリストが代って死なれた人間である。

神は、死の虚無性の中に、愛の光をもたらされる。人生の遂に完成しえなかった歩みの果てに、赦しと復活の命を約束される。律法をもたらしたモーセが、今一歩進めて言うことの出来なかった望みの約束は、われわれのさきがけとして死を克服された主キリストによって確かにされた。

私たちの死に対する恐れのひとつは、死んだのちはどうなるかわからないということにある。モーセはその遺言の中に、すべて主に聖別される者は、み手の中にあり、主の足もとに坐して教をうけ、みことばを聞き、生かされるとのべている。

たしかに、私たちは死後の状態について、いろいろないいあらわしを、聖書からもうける。ある個所では、眠っているといわれ、またある所ではパラダイスにある、主のもとにあるといわれる。御座のもとにあって嘆き、訴える魂としてえがかれている個所もある。

しかし、それらすべてを通してたしかなことは、復活の栄光が待っているということである。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)。そして、主は「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)といわれる。

そこには、人間の生と死というあり方の変化が、左右することの出来ない神との交わりがある。天にのぼろうと、陰府にひそもうと、神の前からのがれることはできない(詩編139:8)。死も生も、現在のものも将来のものも、どんなものも、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:39)。

モーセは、その死に際しても、うしろをかえりみ、なつかしむのではなくて、先の方を、かなたから主が来りたもうのを見た。わたしたちもまた、生命の主がわたしたちの中に来られるように、その主のみ手の中に、死ぬときといわず、今から、しっかりと抱きとられていることができるように、祈り求めてゆきたい。

(1966年 全聖徒主日)

◎以上5編の説教は『武蔵野教会だより説教集1967』より復刻