説教 「人生の午後の時間のために」 大柴譲治牧師

コヘレトの言葉12:1-14、3:1-17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように。

教会暦の終わりに

本日は初めて市ケ谷教会の説教台に立たせていただきます。むさしの教会牧師の大柴譲治です。市ケ谷教会とむさしの教会はこの春以降、役員会レベルでの交流を重ね、9月11日には合同修養会を開催いたしました。そのような中で、今年6-8月に私が米国サンディエゴのホスピスで研修をした際に、渡辺純幸先生にはむさしの教会の主管者となっていただきました。その時の感謝を込めて、本日は私が説教者としてご奉仕させていただくことになりました。このような機会が与えられたことを感謝いたします。

さて、今日は聖霊降臨後の最終主日、つまり教会暦では一年の最後の日曜日となります。来週からアドベントで新しい一年が始まるのですが、今日は特別に主日の日課を離れましてコヘレトの言葉より語らせていただきます。題して「人生の午後の時間のために」。教会暦の終わりに信仰者として人生の終わりについて思いを馳せることはあながち場違いでもなかろうと思った次第です。そして自分の最後を預けるところ(教会)があるという信仰者はいざという時に強いと思います。

「人生の午後の時間」のために

この説教題にピンと来た方もおられましょう。93歳現役医師・日野原重明先生のご著書 『人生百年私の工夫』を思い出した方もおられるかもしれませんが、実はこれはフロイトの弟子であるユングが使った言葉です。人間の人生には午前の時間と午後の時間がある。午前は勉強や仕事、結婚や子育てなど一生懸命に活動をする期間であり、言うならばDoingの時間。それに対して人生の午後の時間はそれらが一段落して、DoingではなくてBeing 存在そのものの次元が課題となる時期。ユングは「人生の午後の時間とは魂の時間であって、魂を豊かにしてゆくことが問われる時間なのだ」と言うのです。折り返し点が何歳ぐらいなのかというのが気になりますが、ユングは当時の平均寿命に鑑みてだいたい40歳ぐらいを考えていたようです。日野原先生などは60歳ぐらいを考えておられるようです。インターネットで調べると次ような紹介文章と出会いました。

『人生百年私の工夫』(幻冬舎)

90歳現役医師「生き方上手」が贈る、しあわせの処方箋。

日本で今、百歳以上の長寿の方は一万四千人おられます。アメリカでは五万人を超えました。人生百年の時代を迎える指針。しかし、喜んでばかりもいられません。「人生百年」時代にふさわしい、長い時間を充実して過ごす知恵、「人生百年の計」が必要になってくるのではないでしょうか。生きることはたしかに苦しいけれども、生き方を工夫すれば、生きることを楽しみに変えていくことができます。老いること、病むこと、死ぬことも、逃れようのない苦しみではなく、どのようにして老いるか、どのようにして病むか、どのようにして死ぬかを工夫していけば、こちらも楽しみにしていけるはずだと考えます。

●クヨクヨしたときは、とにかく歩く。
●その週の疲れは、その週のうちにとる。
●静かな自然の中より、ストレスの多い都会に住む。
●子どもに見返りを求めず、生きがいを探す。
●20年後ああなりたい、と憧れるモデルを探す。

コヘレトの言葉

本日のみ言葉は旧約聖書コヘレトの言葉から選ばせていただきました。口語訳聖書では長く「伝道の書」として親しまれてきた書物です。12: 1の言葉はよく知られています。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに」。口語訳ではこうなっていました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」。

私は学生時代、まだ牧師になろうとは全く考えていなかった20歳の頃に、それは私にとってはまさに「青春の蹉跌」とも呼ぶべき時代でもありましたが、その時期にこの「空の空、空の空、いっさいは空である」と唱える伝道の書と出会い、強烈な印象を持ちました。伝道の書全体をむさぼるように何度も繰り返し読んだ記憶があります。その時にはまだこの12章が何を言わんとしているのか分からなかったのですが、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」という12:1の言葉だけは心に残りました。

実はこの12章の1節の後半以降7節までは、老いてゆくことのリアルな描写がなされています。腰は曲がり目がかすみ(3節)、耳が遠くなり耳鳴りが始まり、朝早く目が覚め、声は低くしわがれる(4節の「門」とは耳のこと)。坂道が怖くなり、動きがにぶくなって足を引きずる(5節のアーモンドの白い花とは白髪、アビヨナとは食欲を増す薬味)。手は震え、病気がちになり、そして最後は「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(7節)、つまり死を迎えるのです。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」(8節)。ズンと落ち込んでゆく描写であります。特に2節は、私は4年前に網膜剥離になって手術を受けて以降、老眼が進む時期とも重なり、なかなか暗いところでは小さな字が読めなくなってきて苦労するようになるとこの描写は本当にその通りだと思わされています。

「空の空、いっさいは空である」という伝道の書の主題が最初から最後まで貫かれています。しかし、実はこの「空」という言葉はヘブル語で「ヘベル」という単語ですが、元は「息」あるいは「蒸気」であり、転じて、時間的な意味で過ぎ去ること、はかなさ、実存の「無価値、空虚、空しさ、不条理」という意味で使われる言葉です。兄に打ち殺されることではかない人生を終えた弟の名がアベルというのも偶然ではありません(「アベル」とは「ヘベル」という同じ言葉から由来する名前)。

私は学生時代にこの伝道の書を読んだ時、正直言って聖書の中にかくも仏教的な響きを持つ書物があるのかと大きな衝撃を受けました。考えてみれば仏教もユダヤ教もキリスト教もアジアに生まれた宗教です。コヘレトの言葉の「空」という言葉を仏教の説く実体のないという意味の「空」とすぐさま同じだと論じるのは乱暴でありましょうが、しかし相通じるものがあるのは事実でありましょう。生老病死という人生の苦しみと不条理とを突き詰めてゆくと「空の空、いっさいは空である」という言葉が疑いなく真実であるという気がしてまいります。伝道者は現実の無意味さ、空虚さをリアルに描写してまいります。知恵を求めることも、快楽を求めることも、権力を求めることも、いっさいは空に過ぎないと言うのです。

ただ一つだけ、この書物にはその主題とは異なった響きのする部分がある。それが、本日もう一つの箇所として選ばせていただいた3章です。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・」そして3:11となります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。口語訳ではこうなっていてもっとインパクトがありました。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。すべては空しいと言っておきながら、神のなされることは皆その時にかなって美しいと言うのです。これは最初理解に苦しみました。そしてそこから次第に見えてきたのは、信仰のまなざしにあってはすべてが空しい中にもただ一つだけ決して空しくはならないもの、美しいものがある。それこそが神のなされるみ業であり、それを信仰のまなざしをもって見上げながら生きることが私たちには求められているということでした。

私たちは生きることの辛さ、不条理というものを体験する時に、「いっさいは空である」という言葉が真実であることを知るのです。しかしそれと同時に、そのような空しい世界のただ中に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」ということ、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」ということが見えてくる次元がある。ある時、突如としてそのような次元が開かれることがある。向こう側から与えられるようなかたちでそれは見えてくるのです。

信仰者の青春

他の旧約聖書同様、私はコヘレトの言葉は全体としてイエス・キリスを指し示していると読んでいます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。私たちの悲しみの一番深いところ、闇の一番深い底にまで降り立ってくださったお方がいる。それが聖書の伝える私たちの救い主イエス・キリストの姿です。

「いっさいは空」であり過ぎ去ってしまうこの世の出来事の中で、あのゴルゴダの丘の出来事、復活の出来事は決して過ぎ去ることのない出来事です。そしてこのお方を信じて生きる時に、私たちには自らの老いによっても揺るぐことのない青春の日々を見いだすことができる。人生においてキリストに出会う、キリストを通して神と出会うということ中にこそ私たちの人生に青春をもたらすものがあると思うのです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とありましたが、それは逆で「創造主に心を留めることの中に青春の日々がある」のではないか。私たちのどん底に降り立ってくださったみ子なる神を心に留めることの中に私たちの真の青春があり、神の備えられた春の花咲く季節がある。それゆえ、このお方と出会う時に、私たちは老シメオンと同じように喜びに満ちた讃歌(ヌンク・ディミティス)を歌うことができるのです。「今わたしは主の救いを見ました。主よあなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です。」(ルーテル礼拝式文より)

人生の午後の時間、魂を豊かにしてゆく時間の中で、私たちはキリストを仰ぎ見るように招かれています。その青春を謳歌するように招かれている。最後にサムエル・ウルマンという人のよく知られている「青春」という詩の最初の部分をご紹介して終わりにします。お一人おひとりの上に豊かな恵みがありますように。

「青春」   サムエル・ウルマン(作山宗久訳)

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教
市ケ谷ルーテル教会にて)