説教 「神の子とする力」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




降誕祭

「彼を受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:1-14)

クリスマスの音信は、喜びの音信であった。天使たちは、天にとどまっておれなくなり、あまがけって、地の人にこれを伝えずにはおれなかった。それは、「すべての民に与えられる大きな喜び」の知らせであった。

しかし、この喜びは、いわば神の側での喜びであり、神の側からの喜びであった。み子イエスが、神であることから人となるまでの無限の道行きを敢えてとり、十字架の死への誕生をされた、高価な喜びであり、人に関わる喜びであった。神は、自ら満足し、悦に入っていられるのではない。愛する人間の救いのために、み子を与えられるという手段をえらび、人々の救いを喜ばれる喜びであった。

しかし、人間の側では、その喜びは、直ちにそのまま反映されたのではない。マリアにもヨセフにも、エルサレムの人々にもヘロデ王にも、不安といらだちがあり、恐れとつまずきがあった。ベツレヘムの野づらをゆるがす天軍の讃美にも、その音信の重大さにも拘らず、その聴衆はわずかな羊飼いたちにすぎなかった。

ヨハネは、イエスの愛したもうた弟子であり、最後の晩餐の時には、主の胸によりそうていた若者であり、十字架の主の陰に立ってマリアを自分の家にひきうけた弟子であった。いわば、最も近く主イエスの地上生活に密着していた人である。にもかかわらず、彼は主の誕生を記すとき、まことに広く深い背景のもとで、それを告げる。天地のはじめから、人の存在の基礎から、この種の誕生の背景は始まる。神は天の高い所にいてはるかに人間の悩みや矛盾に同情していますのではない。この罪人であるわれわれを、愛し、同じ人としての連帯関係の中へと、み子によってはいり来りたもう。ひとり子の栄光は、われわれが生きる力、ゆるしの愛として示される。

彼は世にいたのに、世は彼を知らず、受けいれようとしなかった。大きな喜びは、小さな、安価な喜びにすりかえられたり、ていよく他人の喜びとして、人々は傍観者になろうとする。

主は、天使を救うためでなく、罪と迷いの中にある人を救おうとしてこられた。清い神殿の中にではなく、馬小屋に生をうけられた。神から遠い、世俗の生活の中にいると考えている者の只中にはいってこられた。神に背をむけ、神を否定し、道徳的でもない人たちの中に、手をひろげておいでになった。死を恐れ、生きていることを不安に思い、神の裁きを、世を、飢えを、恐れているわたしたちに救い主としてやってこられた。

あの広く、深い背景のもとに起った主の誕生の出来事は、また広く深い前景をもっている。われわれは、観客としてではなく、この出来事のもつ力の射程の中に、くるめられている。

血肉を供えた人の子としておいでになった主は、われわれの弱さを思いやることのできるおかたである。この人生の中に入り来りたもうた主は、われわれがどこかに逃避したり、天上をあこがれるのでなく、神の愛の中に、この人生を価値あるものとして生きてゆくべきことを示される。

クリスマスの喜びは、われわれの人生に対する態度を新たにさせる力である。彼を受け入れる者には、神の子とする力を与えられる主がこられたという喜びである。キリスト・イエスの誕生は、われわれの、神による誕生である。神のひとり子の誕生は、神の子たちの誕生を告げる。歴史の中のひとりの人物の誕生としてでなく、われわれに関わる力が、そこにある。わたしもまたマリアの子であると誇ってよい。否、わたしも主によって、神の子とされることを喜ばなくてはならない。「キリストがわたしたちの中に形づくられることこそ、この祝日のただひとつの祝い方である」(ルター)。

われわれは、正しく神の側の喜びの深さ、高価さを見、われわれの不安やつまずきが、その中にとけ去るまでに、喜びの中に、あずかってゆかなければならない。安価な、人間的な喜びですりかえてはならない。それは、馬小屋の貧しさの中に、わたしのために身をかがめられた主を、人工の光の中にさらしものにすることにほかならない。

私たちの前に、そのような危険な可能性をもったまま、主の誕生は、「神の子とする力」として提示されている。

(1966年降誕祭説教)