【説教・音声版】2023年2月26日(日)10:30 四旬節第1主日 説 教「 メシア、試練を受ける 」浅野 直樹 牧師 — 下書き

 


2023年2月26 四旬節第一主日礼拝説教(むさしの教会

聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節説教題:「メシア、試練を受ける」

先週の説教では、皆さんにご理解いただいている、との前提に立ってのお話しだったので、言葉足らずの説明になってしまったかもしれませんが、改めて四旬節・受難節についての説明をいたします。

四旬節というくらいですから、四という数字が絡んでくることは予想できると思います。先週行われた「灰の水曜日」から復活祭の前日までの40日間を、四旬節・受難節と言います。ただし、その間の日曜日は除外されますので、正確には6週間と4日となります。ですので、水曜日が四旬節の出発点となる訳です。

今朝、四旬節第一主日に与えられた福音書の日課は、イエスさまが荒野で誘惑を受けられた場面でしたが、先ほどの40という数字・期間の一つの根拠ともなった出来事でした。ちなみに、この40という数字には、あのイスラエル民族が荒野での放浪生活を強いられた40年間(出エジプトの出来事からカナン定住までの期間ですが)も関係すると言われます。ですので、この40という数字は、苦難や試練などの期間を意味するとも考えられるようになりました。ですので、この四旬節の40日間は、伝統的には悔い改めの季節・紫の季節だと受け止められてきた訳です。

今朝のこの荒野の誘惑の出来事は、皆さんも良く知っておられる出来事だと思います。ですので、あまり多くの説明も必要ではないのかもしれません。しかし、まず押さえておきたいのが、この出来事がいつ、どのようなタイミングで起こったか、ということです。福音書によると、この出来事はイエスさまの洗礼の出来事の後、宣教のはじまりの前に起こったことだ、と記されています。しかも、(これは聖霊を表す表記ですが)の導きによるとありますので、この出来事は神さまが主導されて起こった、ということでしょう。私自身は、ここに大きな意味があると思っています。

一つは、この誘惑の出来事は、「メシアならではの誘惑」といった側面です。今からまさに宣教を開始されようとする時、イエスさまとしてはどのように宣教を展開されていくのか、それは、非常に重要なことだからです。何を、どのように伝え、実践していくべき。ですから、この試練を通して、メシアとしての使命をより明確にされたのではなかったか、と思うのです。

もう一つは、「人としての試練・誘惑」、つまり、私たちを代表して誘惑に遭われた、ということです。ヘブライ人への手紙に、こんな言葉があるからです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4章14節以下)。私たちもまた、さまざまなところを通って洗礼へと導かれる訳ですが、洗礼を受けたからもう終わり、ということでは当然ない訳で

す。ここから、人々の中での、世界の中での、私たちを取り巻く現実世界・実生活の中での、キリスト者としての生がはじまっていくからです。そういう意味でも、私たちもまさに誘惑・試練がつきものです。ですので、そういった面においても、イエスさまは私たちを代表して、あるいは手本・模範として、私たちも遭遇するであろう誘惑・試練に遭って下さった、とも言えるのだと思います。

一つ目は空腹です。そんな空腹時にイエスさまは「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」との誘惑を受けました。それに対して、イエスさまはこうお答えになった。有名なお言葉です。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」。一方で、私たちも「なるほど」と感銘を受けるかもしれません。しかし、この時がどんな状態だったかといえば、40日40夜断食した後の極限状態です。つまり、余裕などないのです。信仰などというものは、余裕のある者が、余裕のある時にするものだ、といった思いがないだろうか。

本当に極限状態に陥った時、明日をも分からないような状態に陥った時、それでも、神の口から出る言葉で生きるものだ、と言えるだろうか。それは、私たち個々人の現実の生活においても、またこの世界の救済においても、大きな問いです。こんな時に、礼拝など、祈りなど、聖書の言葉など、役に立たないのではないか。こんな時こそ、パンが必要なのではないだろうか。物質面が必要になるのではないか、と思う。

ロシア軍によるウクライナ侵攻から1年が経過して、テレビなどでも様々な特集などが組まれています。私も興味深く見ていますが、案外ロシア国内では相変わらずプーチン大統領への支持率が高いというのです。もちろん、言論統制など様々な要因が考えられますが、その一つにロシア国民としては安定を求めているからだ、との分析がありました。この世界規模の経済制裁の中でも、国内は比較的安定をしていて、物価も上がってはいるものの、予想したほどは経済のダメージもなく、市民の生活が損なわれていないからだ、というのです。もちろん、政権もそのために必死になっている訳ですが、改めてローマ帝国の統治方法としての「パンとサーカス」という言葉を思い出しました。人々は政治信条や正義の問題よりも自分たちの生活こそを優先させる、ということです。

聖書にもこんな言葉があります。ヤコブの手紙です。2章15節「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」。ヤコブも現実的な支援の必要性を語っています。しかし、注意しなければならないのは、ここで言われているのは、信仰か実践かの二者択一ではない、ということです。そうではなくて、実践が伴わない信仰を問題視している。


イエスさまご自身も、この世界をお救いになるメシアとしても、また私たちの代表としても、この誘惑に直面された訳です。人々が求めているのは、必ずしも神さまによる救いではない。物質的な必要、安定性なのだ、と。それに対してイエスさまはこう答えられた。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」。ここでも注意が必要です。何もイエスさまはパン・物質・生活の資を否定されていないのです。その必要性を認めておられる。しかし、それ「だけ」(パンだけ)ではない、とおっしゃっておられるのです。人が生きるということは、パンだけでなく、神さまの口から出る一つ一つの言葉によっても生きるのだ、と。たとえ、それが極限状態であっても。むしろ、そのような時だからこそ、と。それを、忘れてはならない。

今一つは、聖書・神さまの言葉を誤って、いいえ、むしろ自分勝手に、都合の良いように変質させて、神さまさえも己の目的のために利用しようとする、そんな誘惑。

3番目は解説する必要もないでしょう。そのままの意味です。神さまではなくて、この世界を牛耳っていると思われるものこそを信奉させようとする誘惑。単にこの世界の人々のニーズに応えようとするだけなら、この方が手っ取り早いのかもしれない。憎まれることも、命を落とすこともなかったでしょう。



悪魔の誘惑 アンゼルム・フォイエルバッハ(ドイツ)1857年

今日の第一の朗読(旧約)もよく知られた「誘惑」の箇所でした。時間もありませんので、細かな説明は省きますが、端的にいえば、神さまの御言葉のみに心を向け、御心に従っていく生き方か、それとも、己の心の命じるままに、心の欲するままに生きる生き方か。そのように、悪魔とも理解される蛇の誘惑とは、結局は人類を神さまから引き離そうとするものだった訳です。結局、神さまはあなたたちを心に留めては、愛してはおられないのだ、と。自分の思うように使える駒にしておきたいだけなのだ、と。そこに、真の自由はないのだ、と。

では、その結果、彼らが手に入れたものは何だったのか。「二人の目は開」かれた。確かに、彼らは、私たち人類は、神さまのような類稀なる「善悪の知識」を手に入れたのかもしれません。では、その結果、私たちの世界はどうなったのか。誰もが平和の素晴らしさを知っています。差別・格差などない方がいいこともわかっている。互いに赦し合い、愛し合い、分かち合い、貧困も、争いも、苦しみもない世界を待ち望んでいる。なのに、それが実現できないのです。痛い目に遭ってようやく悟ったのに、また世界は混沌へと進もうとしている。そうです。神さまと違い、人類の最大の問題、最大の課題は、分かっているのに、それが出来ない、ということ。何週間か前にもパウロの言葉を紹介しましたが

(ローマ7章)、そのように何をすれば良いかが分かっているのに、それが出来ない惨めな姿を、パウロは「罪」と呼んだのです。ルターもまた、人は真の正しさを掴み得ない不自由さを見た。自己中心・歪んだ自己愛・エゴイズムから脱し得ない不自由さを。

イエスさまは、この誘惑・試練の中でも、あくまでも神さまにこそ、救いを、問題の解決を見たのです。それを確認し、心に刻んでいった。だからこそ、イエスさまは、私たち人類の救いのために、神さまの御心に従って十字架にまで進んでくださったのです。

たちも知っているはずです。気づいているはずです。私たちの、私たち人類の力だけではどうにもない現実があるということを。この世界などと大きなことばかりでなく、自分の家族との関係においても、自分自身との関係においても、どうにもならない、まことに不自由極まりない真実がある、ということを、私たちは知っている。体験している。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」、

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」。メシアとしても、また私たちの代表としても誘惑・試練を受けてくださったこのイエスさまの言葉を心に刻みながら、私たちもまた、この四旬節の歩みを進めていければと願っています。