【説教・音声版】2023年2月19日(日)10:30 説 教 「 光り輝くイエス 」浅野 直樹 牧師



 

主の変容主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書17章1~9節

本日の礼拝は、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と記されていますように、イエスさまのお姿が変わられた「主の変容」主日の礼拝です。その日課の中で、このように語られているところがありました。

9節です。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」。つまり、この変容の出来事と主の復活とが関連づけられている、ということです。もっと言えば、このイエスさまのお姿が変わられた変容の出来事は、イエスさまの復活を先取りするような、象徴するような出来事だった、と言っても良いと思うのです。

教会の暦としては、今日で顕現節が終わり、今週水曜日には「灰の水曜日」を迎え、来週からはいよいよ四旬節・受難節となっていきます。そして、今年で言えば、4月の第一週から受難週がはじまり、聖金曜日(受苦日)、そして、復活祭(イースター)へと続いていくことになる訳です。つまり、教会、私たちキリスト者たちにとって最も重要な季節を迎える、ということです。

私たちの大先達でありますマルティン・ルター、そして、私たちルーテル教会は、この主の十字架の出来事を非常に大切にしてきました。ルターの神学の特徴を、「十字架の神学」と言われる程に、です。しかし、それも、復活があるからです。この復活の光に照らされるからこそ、十字架もまた色鮮やかに映し出されていきます。そうでなければ、私たちの心は重く打ちのめされるだけです。私たちの罪がイエスさまを十字架へと追いやってしまったのだ、と。私たちの罪がイエスさまの命を奪ってしまったのだ、と。しかし、そうではない。

イエスさまは復活された。死に勝利された。罪の縄目を打ち砕いてくださった。だからこそ、この復活の恵み・輝きという土台があるからこそ、私たちはイエスさまの十字架を見上げることができる。そのこともまた、私たちは繰り返し覚えておきたいと思うのです。

今日の変容の出来事には、弟子たちの中でも、特にペトロとヤコブとヨハネだけが付いていくことを許されました。皆さんもご承知のように、この3人は、特に重要な出来事の時には、例えば、ヤイロの娘を生き返らせた時とかゲツセマネの祈りの場面などに度々伴われた3人です。では、なぜこの3人が選ばれたのか。他の弟子たちよりも優秀だったからか。見込みがあったからか。そうかも知れません。しかし、私は、この3人はあくまでも私たちの代表だと思っています。特に、ペトロはそうです。なぜなら、今日の日課の冒頭に、「六日の後」とあるからです。

では、その六日前には一体何があったのか。ご存知のように、ペトロの信仰告白です。
16章13節以下です。イエスさまは弟子たちに、「わたしを何者だと言うのか。」と尋ねたところ、ペトロが率先して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのでした。このペトロの応答にイエスさまも大層喜ばれて、ペトロに向かって、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と約束された程でした。しかし、この話には続きがあることも、皆さんはご存知でしょう。

この時、イエスさまははじめて弟子たちにご自分のご受難と復活について語られたのですが、それに対してペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、逆にイエスさまをいさめはじめた、と記される始末です。

ここに、私たちの姿も重なる。イエスさまをメシア・救い主だと信じながら、神の子だと告白しておきながら、それでいて、そのメシア・神の子であるイエスさまの言葉をちっとも信じようと、聞こうとしない。むしろ、そんなはずはないと自論を主張して、あたかもイエスさまの方こそが間違っていると言わんばかり。不理解どころではない。これでは、どちらが「主(主従の主です)」か分かりません。これこそ、私たちの代表、私たち自身の姿と言えるのではないか。

そのペトロを「六日の後」に…、つい先ほど、六日前に、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責されたばかりのペトロをあえて選んで、たった1週間では人はそうそう変われないと思いますが、そのペトロをも伴われて、変貌の山に登られたことにも、私は大変深い意味があると思っています。

そして、この超絶不思議な出来事を体験したにも関わらず、復活の先取りとも、神の子としての栄光とも言えるような、天上の世界の出来事を身をもって体験しておきながら、その後のペトロの姿も私たちは良く知っているのです。イエスさまを見捨てて、三度も知らないと言い逃れて、鶏の声に我に返らされ、男泣きに泣いたペトロの姿を私たちはよく知っている。結局彼は、紛れもなく復活されたイエスさまと出会って、聖霊を頂かなければ、本当の意味では、自分が告白したメシア・神の子の意味を理解し得なかった訳です。それもまた、私たちの姿でもある。

『キリストの変容』ティツィアーノ ヴェネツィア,サン・サルヴァドル教会


それでも、そんなペトロであることを十二分に承知の上で、イエスさまはご自分の真の姿を、メシア・神の子としての姿を、復活の姿を見せるために、決してペトロを見放すことなく、伴われたのではなかったか。そうも思う。

以前も何度かお話ししたことがあるかと思いますが、現在の日課では、詩編の言葉も毎主日選ばれています(今のところ私たちの教会では時間の都合もあり、読んではいませんが)。そして、本日の詩篇は第2編が選ばれていました。そこには、こんな言葉がございます。「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。』」。

もうお分かりのように、今日の日課は、どれも福音書の日課と深い関係があるものです。今日の第一の日課(旧約)は、モーセが神の山・シナイ山に登った時の出来事が記されていました。ここに、こういった言葉があります。15節、「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」。もうお分かりのように、今日の変貌の山(主の変容)の出来事と非常によく似ています。つまり、このモーセの出来事と深く関連づけられている、ということです。

もっと言えば、イエスさまは神さまから十戒を受け取り、人々を教え導いていったあのモーセに代わる新たなモーセといった位置付け、と言うことです。そう言えば、先週も説教の中で触れましたが、先々週の日課であった5章17節以下で、マタイはこう記していました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と。今日の変容の出来事に登場してくる

二人の人物、モーセとエリヤは、まさに律法と預言者を象徴するような人物です。しかし、最終的に弟子たちが認めたのは、イエスさまただお一人だけでした。まさに、ここにも、律法や預言者の廃止者ではなくて、完成者であるイエスさまの姿が表されているのでしょう。だからこそ、神さまも雲の中からこう語られたのでした。「これに聞け」と。これからは、完成者であるイエスさまに聞くのです。ただ聞くだけではなく、聞き従うのです。それが、神さまの望みでもある。

また、神さまはご自分の臨在を表す雲の中からこう語られました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と。これも、先ほどご紹介した詩編の言葉と非常に親和性があります。この詩編の言葉は、「王の即位の歌」とも言われるものです。ですので、ここでもイエスさまのお姿は、王の姿でもあられる訳です。ですから、なおのこと、私たちは、このイエスさまに「聞く」と言うことが求められている訳です。

では、これら神さまからの語りかけを聞いた3人の弟子たちは、どう反応したのでしょうか。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とあります。神さまからの語りかけを聞いたのですから、「ひれ伏す」のは分かりますが、「非常に恐れた」と言うのは、どういうことなのか。単純に、神さまの前に出ることへの恐れがあったと思います。つまり、畏敬です。圧倒的な存在感の前に立たされる時に抱く、素直な、素朴な「恐れ」です。しかし、もう一つあると思うのです。

それは、義・正義なる神さまの前に立つことへの恐れ、です。つまり、私たちの罪を裁かれる方の前に立たざるを得ない圧倒的な恐れ、恐怖です。これは、大変厳しい恐れです。ペトロたち3人は、そんな圧倒的な、絶望的な「恐れ」に立たされたのではないだろうか。

そんな弟子たちに、メシア・神の子であるイエスさまが近づいてこられました。しかも、おそらくかがみ込むようにして、弟子たちに触れられて、こう言われた。「起きなさい。恐れることはない」と。これこそが、イエスさまの十字架と復活なのです。このイエスさまによって、私たちはもう神さまを恐れなくてもよい者とされたからです。私たちは、神さまの裁きを恐れなくてもよい者とされた。罪に、死に、絶望しないでよい者とされた。なぜなら、私たちはイエスさまによって神さまと和解させて頂いたのだから。この神さまが私たちの神さまになってくださったことによって、希望を見失うことがなくなったのだから。

だから、もう「恐れ」なくても良い。イエスさまが近づいてきてくださり、私たちを立ち上がらせてくださるから、もう何も恐れなくても良い。それが、私たちが味わうべき救いの力。神さまが語られたイエスさまに「聞け」とは、そういうことです。律法の完成者として、王として、山上の説教に代表されるような教えを聞くだけじゃない。もちろん、それらも大切に違いないのですが、それ以上に、イエスさまが語られた救いの出来事、赦しの約束をしっかりと漏らさずに聞くのです。

ペトロのように、弟子の心得としては十分な配慮だったかもしれませんが、それでも、イエスさまの十字架の出来事を、復活の出来事を、否定して、聞かないようでは、意味がない。あの圧倒的な恐れからは決して救われない。この救いを成し遂げてくださる、完成してくださるイエスさまの言葉を少しも漏らすことなく聞くしかない。

最初に言いましたように、来週から四旬節・受難節がはじまり、私たちは復活祭へと向かっていくことになりますが、改めて、このイエスさまに「聞く」ということを心に留めながら過ごして行きたい。そう思っています。